或る女の手記
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)寂然《ひっそり》した
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]
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私はそのお寺が好きだった。
重々しい御門の中は、すぐに広い庭になっていて、植込の木立に日の光りを遮られてるせいか、地面は一面に苔生していた。その庭の中に、楓の木が二列に立ち並んで、御門から真直に広い道を拵えていた。道の真中は石畳になっていて、それが奥の築山と大きな何かの石碑とに行き当ると、俄に左へ折れて、本堂へ通じているらしかった。表からは、本堂のなだらかな屋根の一部しか見えなかった。この本堂の屋根の一部と、寂然《ひっそり》した広い庭と、苔生した地面と、平らな石畳の道と、楓の並木のしなやかな枝葉と、清らかな空気とを、重々しい御門の向うに眺めては、その奥ゆかしい寂しい風致に、私は幾度心を打たれたことであろう! けれども御門の柱に、「猥リニ出入ヲ禁ズ」という札が掛っていたので、私は一度も中にはいったことはなかった。ただ学校の往き帰りに、その前を通るのを楽しみにしていたのだった。
今記憶を辿ってみると、そのお寺の象《すがた》がはっきり私の頭に刻み込まれたのは、女学校の三年の頃からであるように思われる。そしてまたその年に、あの人の姿を見るようになったのである。
初めて見たのは何時であるか、私は覚えていない。ただいつとはなしに、白い平素着《ふだんぎ》をつけた若いお坊さんの姿が、そのお寺の庭に、楓の並木の向うに、じっと立っているのを私は見出すようになった。けれども、若い淋しそうなお坊さんだと思ったきりで、別に気にも止めなかった。気にも止めないくらいに、知らず識らずのうちに見馴れてしまった。
私の見た限りでは、その年若いお坊さんは、いつも白い平素着で、楓の茂みの向うに佇んでいたり、また時には御門から真正面の大きな石碑の前を、ゆるやかに歩いてることもあった。その姿が、お寺の中の閑寂な庭に、一しお趣きを添えていた。私はお寺の前を通る毎に、必ず中をちらりと覗き込んで、其処にお坊さんの姿を見出されないと、或る淡い不満を覚えたものである。私の心はそのお坊さんに対して、何となく親
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