綿の中に転り込んだような工合だ。そしてその真綿全体に、おれは心身とも素っ裸のまま包みこまれてしまう。諦めて、眼をつぶって、甘ったれるより外はない。四十五歳のこのおれが、彼女に対しては、ただ甘ったれるだけの能しかないのだ。
然し、今日は、いや今夜こそは、おれの方で、彼女を存分に甘えさしてやろう。身を以て、心を以て、情愛を以て、甘ったれるということがどんなことだか、彼女に思い知らしてやらなければならない。
あとは運命に任せる。生きるか死ぬか、決定的な瞬間が、現出するだろう。
おれの精神は張り切り、耳はとぎ澄されている。だが、何の気配もない。彼女はまだ来ない。あれほど堅い約束を、どうしたのであろうか。
「きっと、きっと、来ますか。」
「ええ。わたしの方から言い出したことですもの。」
「確かですね。」
彼女は頷き、柔かな手をおれに差し出し、おれの眼をじっと見つめて、微笑した。その微笑の中におれは、なにか不吉なものを感じたように、今になって思い出すのだが、ああいう場合の不吉な色は、却って、底に決意を含んでるからではなかったろうか。
彼女は来るだろう。おれは夜通し、明日までも明後日までも、待とう。
電話……近くの家にあるが、電話をかけてみることなどは下らん。煙草はまずい。酒の方がいい。電熱器の湯はすぐにさめるし、燗をするのも面倒だから、ドライ・ジンの口をあけて、ゆっくりと喉に流しこむ。
戸外に虫の声がする。
「どうした。」
突然の人声だ。振り向くと、襖を少し開いて、あやめ模様の白っぽい着物の女が坐っている。
「先生。」
か細い声で呼ぶ。虚を突かれて、おれはぞっと総毛立ち、顔から血が引いたのを自分でも感じた。
「先生。」
さよ子だった。
「お食事は、どう致しましょう。」
つめた息を吸って、平静に戻るのに、ちと時間がかかった。
「食事はいらんと言っておいたんだが、君たちは。」
「お待ちしておりました。」
「ばかだな。早くすますんだよ。」
へんに腹が立った。なぜかおずおずしているさよ子を呼んで、小皿のもの、たたみ鰯だのすずめ焼だのみず貝だの、なまぐさ物をすべて持ってゆかせることにした。おれにはもうそんな物はいらないんだ。ただ腹立たしかった。
「卑屈な気持ちを持っちゃいかんよ。自主自立、これが文学には最も大切だ。」
おれの顔をぼんやり見上げてる彼女に、尋ねてみた。
「先達ての下山総裁事件ね、あれを君はどう思うんだい。」
彼女はぽかんとして、考えてみようともしないらしい。
「あの自動車の運転手だ。下山さんが三越にはいって、ちょっと五分間ばかりと言ったのを、朝の九時半から午後の五時まで、七時間半もぼんやり待つということが、あるものか。大臣とか長官とかいう者は、人を待たせておくのは平気で、そのようなことは始終あるのかも知れないが、然し、待ってる方はばかだね。七時間半もぼんやり待ってるという精神が、滑稽なんだ。滑稽を通りこして、愚劣極まる。そういう[#「そういう」は底本では「さういう」]奴隷的根性が無くならない限り、人間は救われないよ。」
「わたくしもそう思います。」彼女はようやく答える。
「それから、ずっと前の、椎名町の帝銀事件だ。都庁の防疫官の指図だと、かりに信じたにせよ、その言いなり次第に、十幾人ものひとが燕の子のように口をそろえて、一斉に薬剤を呑みこむということが、あるものか。お役人の言うことはすべてごもっともと、何の批判もなく服従する、これも奴隷的根性だ。そんなものは根絶しなけりゃいけない。つまり、批判的精神、独立自主の精神、自由な精神、それが大切なんだ。何物にも囚われないことだ、人間の解放というのも、結局は、何物にも囚われない境地へ脱け出すことだろう。」
「わたくしもそう思います。」と彼女はまた答える。
「ほんとにそう思うのかい。」
「はい。」
彼女は眼を伏せて端坐している。
「君を叱ってるんじゃないよ。ただ、僕の感想を言ってるだけだ。」
こんどは返事がない。
「もういい。」
さよ子は足音をしのばして出て行った。
何物にも囚われるな。そうだ。おれはジンのグラスを置いて、日本酒の燗にかかった。余り早く酔いすぎてはいけないのだ。酔うなら、相馬多加代といっしょに酔いたい。
彼女はどうして来ないのだろう。何か事変でもあったのではなかろうか。いや、そんな筈はない。きっと来る。来るまで待つんだ。いつまでも待つぞ。
電燈のあたりに、蝿が一匹飛びまわっている。羽音がうるさい。おれは扇子を取って立ち上り、叩き落そうとするが、なかなかうまくいかない。蝿は電球に滑り滑りくっついたり、笠の奥にはいりこんだり、室内に大きく円を描いて飛んだり、天井に身を休めたりする。長くかかって、漸くに叩き落してやった。紙でつまんで、押しつぶすと、ぐちゃりと大きな音が指先に伝わり、白い臓腑を噴出さしている。汚らわしい奴だ。紙にくるんで、さて、捨て場所に困ったが、構うことはない、便所に放りこんでやった。
小便をしていると、足がふらついた。
酔ったのかな。
両手を頭の下にあてて、仰向けに寝ころんでみたが、瞼が重い感じだ。眠ってはならない。今に彼女が来るだろう。起き上り、整理小箪笥の一番下の抽出を探ると、幾つかの小壜がある。机の上に、数粒の錠剤をころがしてみる。扁平な白い錠剤をもてあそぶのは、童心の喜びだ。おれはそれらを愛用してるのではない。ヒロポニアンでもなければ、アドルマーでもない。ただ必要に応じて、ちょっとかじるだけだ。味のないこともあり、苦いこともあり、甘酸いこともある。いずれにしても後味はよくない。それを消すにはやはり酒に限る。
考えることがあるのだ。重大な考えごとがあるのだ。少しぬる加減の酒を、思惟の速度に合して、口にふくむだけで、眼を見据えていると、室の天井も四壁も消失して、心気は天地と合体する。微風が音もなく流れ、露が静かに結ぼれてる、晴朗な夜である。
「先生。」
こんどははっきりした声だ。
「はいってもよろしゅうございますか。」
「ああ、いいよ。」
さよ子はノートを持ってはいって来る。
「ここのところが、少し分らないんですけれど……。」
「まだ書いてるのかい。明日でいいよ。」
「でも、明日になって、そんなものだめだから、もうやめなさい、なんて、先生に言われますと、困りますもの。」
「大丈夫、気紛れは起さない。だが、今晩、もっと続けたければ、それでもいいよ。」
彼女が分らないというのは、ノートの中に待合の女将が出てくるところだ。芸者をダンサーに変えたんだから、女将はどうしたらよいかというのである。そんなら、女将は、ダンスホールのマネージャーにでもしたらよかろうし、そのマネージャーには、彼女が識ってる出版社の編輯長でもかりてくるんだなと、おれはいい加減に助言してやった。その言葉を一つ一つ、彼女は噛みしめるように頷いている。憐れな奴だ。
ふと、憐愍の情がおれの胸に萠してくる。
「何事も勉強だよ。天才は忍耐だと言うが、忍耐して努力すること、つまり努力し得る能力が、即ち天才なんだ。君も勉強してごらん。」
彼女は眼をぱちくりさしておれの顔を見た。浅黒い皮膚で、小鼻がしぼみ、耳のわきに薄い痣がある。どう見たって美人じゃない。
「男もそうだが、女はなおのこと、文学をやるには、たしかな覚悟がいるよ。誘惑、どんな誘惑にも、負けないことだ。清貧に甘んじ、謙虚な気持ちで、世に処してゆかなければならない。出版社の重役になったり、顧問になったりして、小遣稼ぎをしてはいかん。」
彼女は衷心から頷いてる様子だ。頸部がへんに筋張っていて、胸は肋骨が太いに違いない、若いくせに乳房がしぼみ、乳首だけが大きいのが、わかる。
「謙虚な気持ちでなければ、物の本当の姿は見て取れないものだ。文学者に最も大切なのは、確実な明晰な眼を持つことだと言われてるだろう。そういう眼を養い育てるには、あらゆる偏見や先入観を捨て去って、全くの謙虚さに自らを置かなければいけないと、僕は思うよ。」
彼女は深く頷いてるらしい。前屈みがちに坐っている。赤っぽく野暮ったい帯のしめ方が、へんにだぶついている。胸の肉が薄いかわりに、腹には贅肉がついていて、臍には黒い垢がたまっているのが、わかる。
「謙虚でさえあれば、化粧とか衣裳とか、ばかなことに心を労することもない。外形の美醜は問題じゃないよ。心の美しいことが第一だ。内心の美、それによって、例えば性慾というようなものも克服出来るさ。」
彼女はちらと眼を挙げておれを見たが、すぐに視線を膝に落した。両膝をきちっとくっつけている。皮膚のかたい両股であり、陰部には、やけにこわい毛が密生してるのが、わかる。
「性慾の対象は、なんといっても、異性にあるし、これがたいていは、暴力的な形を取ることが多い。本当の愛情が世に稀な所以だ。文学がヒューマニズムを旗印とするからには、どこまでも愛の味方であり、暴力の敵であらねばならぬ。」
彼女はまたおれを見上げた。感激に涙ぐんでるような眼眸だ。おれは突然、憎悪を感じた。彼女の衣服をはいで、彼女の醜い裸体をそこに見た、そのことのために、彼女を憎悪するのだ。再び伏せてる彼女の顔の方へ、手を差し延べて、その※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]をぐいと持ち上げた。
「なんだ、下ばかり向くなよ。顔は真直に向けとくものだ。」
彼女をそこに押し倒してやりたい衝動を、むりに抑えて、眼をそらしながら言った。
「もういい。」
彼女が出てゆくより前に、おれはそこに寝そべり、眼をつぶった。
なにか狂暴なものが、おれの身内に頭をもたげている。そしておれの眼前に、忽然と、相馬武彦の姿が現われた。多加代の夫だ。おれは彼を一度か二度、あの文化式な住宅の横手の菜園に見かけたことがある。いろんな野菜を作って、自分で手入れしてるのだ。外浪費で内吝嗇の、そして案外すらりとした恰好の男だ。ちょっと旅行に出てた筈だが、ふいに帰って来るかなにかして、そのために多加代は来られなくなったのかも知れない。彼奴と決闘してやろう。元将校だって何だって、たかの知れた野郎だ。用捨なく殺してやるまでだ。きっと殺してみせる。
決闘の場面が、ちらちらと回転する。急いではいけない。ゆっくりと味ってやれ。おれは起き上って、ジンのグラスを取りあげた。
あたりはしんしんと静まり返っている。深い水底のけはいだ。虫の声もせず、ことりとの物音もなく、大気は淀んでいる。
煙のようなものが、どこかに渦巻き渦巻き拡がってゆく。
「中根圭次郎。」
おれの名を呼んだ。誰だ。
見まわしたが、書棚の硝子戸がぼーっと白んでるだけで、異状はない。違う棚の隅にある二尺ほどの仏像が、にこにこしてるようだ。おれは頬笑ましくなった。
「汝の享楽の……。」
ちょっと声を途絶える。
「なんぞ卑賤なる。」
聞き覚えのある文句だ。
「なんぞ卑俗なる。」
言い直したな。
「なんぞ下劣なる。」
また言い直したな。
それきり声は沈黙した。おれはジンのグラスを取り上げた。頭が少しふらつくようだ。やはり日本酒の方がいい。電熱器にスイッチを入れると、ぢぢぢぢと音がする。
「災厄は一日にして成らず。」
声に答えて、おれは大声で言い直してやった。
「ローマは一日にして成らず。」
「災厄は一日にして成らず。」と声が言う。
「ローマは一日にして成らず。」とおれが言う。
「災厄は一日にして成らず。」
「ローマは一日にして成らず。」
「災厄は一日にして成らず。」
おれはもう返事をせず、相手にならないことにした。すると、あとはもうめちゃくちゃだ。
「ばか、ばか、ばか。……恥さらし。……くたばっちまえ。……まだ酔わないか。……飲め、飲め、くたばるまで飲め。」
あの仏像が、口を利いてるらしい。おれは突然、全く意外に、瞬間的な突然さで、かっと腹が立った。唇をかんで、あたりを見ると、アスパラガスの缶詰、梨、チーズ、香味料の壜、いろんな物があり、鶏卵が鉢に盛ってある。卵の黄身をやたらにすするのは、彼女
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