或る作家の厄日
豊島与志雄

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 準備は出来た。彼女が来るのを待つばかりだ。御馳走が少し足りないようだが、この場合、いろんな物をごてごて並べ立てるのも、却ってさもしい。万事すっきりと、趣味を守ることだ。腹にたまるようなものは避けたがよい。肉類はだいたい下品だ。もし腹がへったら、白いパンにキャビア……パンは白いにきまってる筈だが、その白いパンがなかなか手にはいらない悲しい時代だ。其他、おれはずいぶん配慮した。第一、女中やさよ子の手をかりないで、おれ一人で、いや、彼女と二人で、処理したいのだ。鉢に盛った鶏卵が少し気になるが、彼女には、卵の黄身だけをぬき出してすする癖があるので、その癖を大目に見てもよかろう。酒は豊富にある。日本酒をはじめ、葡萄酒、ジン、ウイスキー、炭酸水も用意してある。
「今日は、たぶん、徹夜の仕事になるだろうから、食べ物は書斎に並べておいてくれ。夕御飯はいらん。」
 そのように、女中に言っておいた。つまり、何の打合せもなく、偶然、相馬多加代さんが訪れてきた、という工合にしたいのだ。それまでは、さし迫った仕事があるからとの口実で、誰が来ても玄関で立ち話だけにし、いよいよ彼女が来たら、居留守をつかって誰にも逢わないことにする。あとは、二人きりの時間であり、二人きりの世界だ。
 どういうことになるか、それだけは見当がつかない。
「あなたの書斎が見たい。あなたの書斎で、お酒に酔いたい。」
 抱擁のなかで、彼女は言った。真剣な語気だった。
 実は、何の特長もない、むしろ見すぼらしい書斎なのだ。然し、画家のアトリエとか、小説家の書斎など、他人には、神聖な場所とも思えるらしい。当人にとっても、時としてはそうなんだから、もっともなことだ。あなたの書斎が見たいとは、三十五歳にもなる人妻の、単なるロマンチックな気持ちからではあるまい。その上、いや最も肝腎なのは、情愛の問題だ。おれだって、彼女の寝室を覗きたいし、彼女の寝室で、お酒に酔ってみたい。彼女は、おれの書斎で……。
 気兼ねのいらない安全な場所がほしかった。相馬邸は人目が多い。旅館とか待合は彼女が好まない。いつでも自由に逢える場所はないものか。おれの方では、スキャンダルなんかは一向に恐れない。彼女の方でも、世間体をそうびくびくしてるわけではない。老いらくの恋で人妻を奪った者さえある。けれど、二人の仲は秘密にしておく必要がある。
 原因は、彼女の主人の吝嗇にある。彼は元陸軍将校で、相当な財産を持っていた上に、終戦後、旧部下の者数名と商事会社を作り、ヤミ物資の売買をして、更に財産をふやした。放蕩はするし、情婦もあるらしいし、妻への愛着は少いようだ。その代り、家庭の経済には監督厳重で、嘗て、妻の品行に聊かの疑惑を懐いた時、嫉妬はせず、その代り、金を殆んど与えなかった、そういうことを、彼女は恐怖している。
 彼女は、映画はあまり見ないが、新旧とも芝居が好きだし、短歌会などにはいって、へたな歌をこねまわし、ダンスはしないけれど、うまいコーヒーやケーキを好み、アルコール類も可なり嗜み、日常が贅沢で派手なのだ。貧乏華族の娘だったとかで、どこかおおまかだ。そういうところに実は、家庭における主人の吝嗇が胚胎してるのかも知れない。彼女はずいぶん金がかかる女のようだ。
「無一文になったら、わたし、死んでしまうかも知れない。」
 冗談でなく彼女は言う。だから、おれとの仲が主人にばれて、小遣銭が全く封じられたら、それは彼女にとって生きながらの死を意味するだろう。だからといって、主人の財産の中から、自由になる金を予めごまかしておくだけの才覚もない。いざとなったら、おれのところへ飛び込んで来て、同棲生活をするという、それだけの勇気もないし、てんで、そのようなこと考えてもみないらしい。彼女は旅を億劫がり、結婚後、主人の任地へも行ったことがなく、いつも東京の邸宅に暮していたらしく、避暑とか避寒とかの旅もしない。おれのところへ飛び込んで来るなどということは、旅行以上の冒険なのだ。
 だが、このおれにしても、物ぐさなことにかけては、彼女と変りない。彼女との同棲生活など、おれも考えたことはない。嘗て妻と喧嘩別れをし、正式に離別した時は、むしろさっぱりした気持ちだった。家の中で一定の地位を持ち権力を持つ女性との生活は、一度だけでもう沢山だ。身辺の多少の不便さなどは、考えようでどうにでもなる。現に、女中と本間さよ子とがいるだけで、何の不便も感じない。
 然し、貧乏なのは、これは困る。金があればありったけ、いつも酒を飲んでしまうのが、悪い癖だ。あとは後悔の連続である。そしてこの後悔という奴、霧のようなもので、たとえあたり一面に立ち罩めようと、再び金が出来れば、音もなく色香もなく消え失せてしまい、何等の痕跡も残さない。
 金がなければ、つまり、自由に使える金がなければ、おれだって、生きながら死んでるのと同じだ。彼女の気持がよく分る。もしも、このようなことを公言する者があったら、今の時勢に何を言うかと、おれはぶん殴ってやるかも知れないが、然し、おれと彼女だけは別だ。別だとは、他人でないということだ。
 この頃、全くの金づまりで困る。一般にそのようだが、殊に出版界は甚しく不景気で、印税は払ってくれず、原稿料さえ後れがちで、前借などは殆んどだめだ。出版界以外からの借金も、ちょっと方策がつかない。それでも、相馬多加代との交際で、おれには余計な金がいる。昨日は、見当をつけて、或る出版社を訪れ、印税の残りを請求してみた。来月の十日まで待ってほしいと、社長からの返事だ。全く現金がないらしい。次に、或る雑誌社を訪れて、原稿料の前借を申し込んでみた。原稿執筆の約束があるのだ。編輯長はひどく当惑そうな顔をして、とにかく、原稿を、たとえ完結しないままでもよいから、持って来て頂けまいかと、逆な頼みだ。原稿さえ頂いたら、社長を説きつけて、御入用の金だけは、責任を以て直ちに出させるとのこと。その好意で、まずまずおれは助かった思いがした。
 ところで、問題は、その原稿だ。暑気のせいもあり、過労のせいもあって、どうも仕事がうまくいかない。仕事が運ばないと、なおさら酒を飲むし、飲んだあとは心身ともに虚脱的になり、仕事はなお出来にくい。いたちごっこで、自分を訶んでるようなものだ。焼酎、日本酒、安ウイスキー、その混合の毒にもあたり気味だし、頭脳を明晰にする筈の薬剤の作用も、重複すれば却って頭を濁らすらしい。だが、これも一時のことだと、自信はある。
 それはとにかく、さし迫って原稿を書かなければならない。而も、時間の余裕はない。相馬多加代との約束は、何よりも重大だ。
 人生、窮すれば通ずで、おれも窮余の策を発見した。ノートにめちゃくちゃに書きつけた小説断片があるのを、思い出したのである。他日何かに利用するつもりのなぐり書きで、単独の使い物にはならない。然し、アプレ・ゲールのデフォルマシオンとして、案外、読者の眼をごまかせるかも知れない。内容が古くさいのは何とも致し方ないが、これとても、一種の皮肉として通用しないとも限らない。一人の男をめぐって、その細君と馴染みの芸者との間の、とんちんかんな変梃ないきさつの事実メモだ。
 小説家たる者は、平素の心掛けや勉強が大切だ。何が役に立つか分らない。おれはそのノートを原稿用紙に清書することを、本間さよ子にやらせた。自分ではさすがにばかばかしくて出来ないし、時間もない。
 さよ子は、まあ謂わば文学志望者で、おれの家にいて、家事の手伝いをしたり、原稿や書信の整理をしたりしている。前には或る出版社に勤めていたが、のろまで役に立たなくて持て余されているのを、おれの方に引き受けたのだ。のろまで役に立たないというのが、おれの気に入った。家庭においては、女のきれ者はすべて禁物だ。
 ノートの清書を頼んで、おれは言った。
「君の勉強になることだから、一生懸命にやってごらん。清書をするという気持ちではなく、半ばは自分で創作をするという気持ちで、足りないと思うところは自由に書き足すんだよ。」
 さよ子の態度にも眼の色にも、神妙な意気込みと歓びとが見えた。それが却っておれには不安になった。暫く考えてるうち、大事なことを思い当った。彼女は芸者の言葉など恐らく聞いたこともあるまい。芸者をダンサーに変えたらどうか。ダンサーの言葉なら、彼女がよく識ってる女編輯者の言葉と、大差なくごまかせるだろう。それの方が、作品もモダーンになる。つまり、彼女の無知が却って作品をよくするのだ。――この最後の点は、おれも黙っていたが、芸者をダンサーに変えることについて、懇々と注意を与えてやった。
 さよ子はあちらの室で、熱心に原稿を書いている。それが進捗するに随って、おれの懐にはそれだけ原稿料がころがり込むというわけだ。
 分らない箇所があると、彼女はおれのところへ相談に来る。おれは懇切に教えてやる。それから、尋ねてみる。
「どうだい、この作品、面白いかい。」
「たいへん面白いんですけれど……。」
「けれど……なんだい。」
 彼女は額の汗をハンカチで拭いて、かしこまっている。
「遠慮なく言ってごらん。どこかに発表するというものじゃない。ただ、君の勉強のために清書さしてるんだ。いつも言う通り、物を書くということは、物をはっきり考えることだ。考えることと書くこととを、一緒のものにするのさ。そこで、この作品は、どうなんだい。」
「少し、やさしすぎるような気がしますけれど……。」
「けれど……それから。」
「わたくしにはたいへん勉強になります。」
 相当にうまいことを言う。やさしすぎたり、彼女の勉強になったり、する筈だ。メモに過ぎず、粗描に過ぎないのだ。
「君の勉強になるなら、結構だ。然しね、作品はやさしいほどいいんだ。作家というものは、大衆に奉仕する精神が大切だ。独りよがりは最もいけない。深遠なことを平易に表現する、これが最高の技術だ。」
 彼女は黙って謹聴している。もういいと言うまで、そこに坐りこんでるかも知れない。気が利かないんだ。
「もういい。」とおれは言う。
 それからおれは一人で、酒を飲みはじめた。電熱器を持ちこんで、日本酒の燗をするのだ。考えることも仕事の一種だと、さよ子にも女中にもかねがね言い聞かしてある。こちらから呼ばなければ、誰もサーヴィスに来ない。よく訓練がとどいている。
 相馬多加代は、いったいどうしたのであろうか。いくら待ってもやって来ない。午後、夕方までには、必ず、と堅い約束だった。もう薄暗くなりかけている。

 多加代がおれの書斎にやってくる、そして二人で酔っ払って、それから……その先になにか、宿命的な決定的なものが控えているのだ。おれはそれを肯定し、それを受け容れよう、拒否はすべて卑怯だ。
 おれと同じく、彼女も拒否を知らない。
「自分で自分がわからないわ。」
 彼女は独語のように呟いた。二人がどうしてこんなことになったか、それを指すのだ。然し、理由のないところにこそ、真の愛情があるのだ。
 おれたちは、極めて自然に、初めからそうきめられていたかのように、手を執りあい、互に寄り添い、唇を接した。どうしてそうなったか分らないのだ。相互の牽引力とでも言おうか。いささかの摩擦もなかった。
 おれの方には、骨もあり、筋もあり、爪もあり、角ばったところもある。だが彼女には、そういうものが一切ない。肥満しすぎてるのでもなく、贅肉が多すぎるのでもないが、全体に丸っこいのだ。顔立ちはふっくらしているし、首が短くて肩が丸く、腰つきが丸っこく、踝も丸っこく、乳房は充実しきった球形をしている。その姿態にふさわしく、言葉つきも感情の動きもすべて丸っこく、ふうわりしている。おれが飛びかかっていっても暴れても、どこにも手掛りはなく、真
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