。夕御飯はいらん。」
そのように、女中に言っておいた。つまり、何の打合せもなく、偶然、相馬多加代さんが訪れてきた、という工合にしたいのだ。それまでは、さし迫った仕事があるからとの口実で、誰が来ても玄関で立ち話だけにし、いよいよ彼女が来たら、居留守をつかって誰にも逢わないことにする。あとは、二人きりの時間であり、二人きりの世界だ。
どういうことになるか、それだけは見当がつかない。
「あなたの書斎が見たい。あなたの書斎で、お酒に酔いたい。」
抱擁のなかで、彼女は言った。真剣な語気だった。
実は、何の特長もない、むしろ見すぼらしい書斎なのだ。然し、画家のアトリエとか、小説家の書斎など、他人には、神聖な場所とも思えるらしい。当人にとっても、時としてはそうなんだから、もっともなことだ。あなたの書斎が見たいとは、三十五歳にもなる人妻の、単なるロマンチックな気持ちからではあるまい。その上、いや最も肝腎なのは、情愛の問題だ。おれだって、彼女の寝室を覗きたいし、彼女の寝室で、お酒に酔ってみたい。彼女は、おれの書斎で……。
気兼ねのいらない安全な場所がほしかった。相馬邸は人目が多い。旅館とか待合
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