、打ってごらん。」
 彼女はまだ昨夜の続きを夢みているらしかった。小娘に似てもつかない焼け瀾れた淫蕩な眼付で、私の方へじりじりと迫ってきた。私はぞっと冷水を浴びたような気がした。眼を見張りながら、思い切って彼女の頬辺へ平手打ちを喰わした。そして今にも彼女から掴みかかって来られるものと、その身構えをしたが、彼女は変にくしゃくしゃな渋め顔をして、息をつめてるかと思うまに、ぽろりと大粒の涙を落して、それをきっかけにわっと泣き出してしまった。私は呆気にとられて、訳が分らなくなった。まるで小さな子供のような彼女の泣きじゃくりを、惘然と眺める外はなかったが、次の瞬間には、自分でも変な気持になって、はらはらと涙をこぼした。その後からなお激しく涙が出て来た。
 やがて私は、涙を払って立上った。汚い煎餅布団につっ伏して泣いている、腰帯一つの小娘の姿を、上からじろりと見下して云った。
「もう帰るよ。」
 女は駄々っ児のように首を振った。
 私はその背中に屈み込んで、やさしく肩に手をやりながら、またくり返した。
「もう帰るよ。夜が明けたんだ。」
 それから私は、咋夜の勘定残りの、なけなしの五円札を取出して、それを彼女の手に握らした。
「少いけれど、取っといてくれ。……おい、もう帰るよ。夜が明けたんだ。」
 彼女は涙にぬれた顔を上げて、私の方を見た。私が立上ると、彼女も自動人形のように立上った。そして、踏段の軋る急な階段を、私の後について下りてきて、下駄を出してくれ、表の戸を開いてくれた。その無言の彼女の方へ、私はもう振向きもしないで、さよなら、と云い捨てたまま外へ飛び出した。
 曇り空の下のどんよりした薄明りに、漸くそれと知られる、まるで夕暮のような夜明けだった。私は力無い危っかしい足取りで、曲りくねった小路をつきぬけ、近くの公園へ辿りついて、池の近くのベンチに坐った。昨日から曇ったままの暗い陰鬱な空、ぼーっと盲《めし》いた薄ら明り、濁ったままどんよりと湛えてる池の水、黙りこくった剥げちょろの建物、凡てが重々しく私の心にのしかかってきた。
 私は長い間身動きもしなかった。汚い忌わしい臭気に染みながら、身体の内部のものがすっかり吐き出されてしまったような、変に頼りない空しさを覚えた。その空しさに眼をつぶっていると、何処からか冷々とした風が流れてきた。私は夢からさめたように顔を上げた。何とも云えない気持だった。灰汁《あく》を払い落した病後の力無い健かさとも、またはすっかり圧倒されつくした疲憊の極とも、何れとも分たない清々《すがすが》しさだった。そして私は思うさま胸の奥底まで、冷たい空気を吸い込んだ。吸い込んではまた吸い込んだ。軽々と胸の底まで息の出来ることは、何よりも一番いいことだ。私はベンチに腰を掛けたまま、両足をばたばたやってみた。
 その時何かしら下駄の先に、冴えた音を立てるものがあった。屈み込んでよく見ると、一銭銅貨が一つ落ちていた。私は何気なくそれを拾い上げてみたが、神……というものがあればその神から、恵まれたもののような気がして、袂の中にしまい込んだ。そして立上って、何だか急に悪寒を覚えながら、まだ電車もない遠い道を、下宿の方へ帰っていった。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
   1923(大正12)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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