店の前へおびき出そうとしていた。兎に角、結果をはっきりと見てみたい、そういう要求がむずむずしてくるのを、私はどうすることも出来なかった。
 そして暫くして、私は外に出かけたのだった。それは実に変梃な気持だった。恐いもの見たさの気持とも違うし、待ち焦れてじりじりしてる気持とも違うし、何だかこう蜘蛛の糸にでも搦められて、歯をくいしばってるようなものだった。そして私は何故か、また遠い廻り道をした上で、硝子店へ行ってみた。そしてひょっくりその前に出て眺めてみると、喫驚して立止ってしまった。
 硝子店の内部は、私が石を投ずる以前の有様と、少しも変ってはいなかった。元通りに品物が並び、元通りの番頭が控え、元通り電燈がともって、やはり煌々とした玻璃宮で、ただ二人連れの客が何か買物をしてるのだけが違っていた。それでは、私の投げた二つの石は中まで達しなかったのだろうか? いやそんな筈はなかった。硝子の破片が飛び散って番頭が立上るのを、私は確かに見届けておいたのである。……そうだ、何もかもすぐに、綺麗に取片付けられてしまったのだ。私が逃出してるうちに、以前通りの有様に飾られてしまったのだ。私は忌々しさと絶望との余りに、暫くつっ立って見つめていた。それから横町を少し引返して、また石を拾おうとした。その動作に自ら気付いた時、急に不安な恐怖を覚え初めた。
 凡てのことが、硝子一枚距てたように、自分と或る程度まで没交渉に冴え返っていたが、その中から、ふいに私の頭へ躍り込んできたものがある。それは私が辿った道筋だった。石を投げてから下宿へ戻るまでの道筋と、下宿からまた出かけてきた道筋とが、不気味なほどはっきりと眼に見えてきた。それはうねうねとしてる二筋の縄で、その両端が、一方は下宿に他方は今立ってる横町に、結び合わされていた。その同じ道筋の上を、何度もくるくる歩き廻るだろう自分の姿が、頭に映ってきた。
 私は堪らなくなって、何かに反抗するような気勢で、そのくせ、自分を引入れようとしてる二筋のつながった道から逃げ出すように、大道りへ飛出して、向うの硝子店をじろりと見やりながら、暫く歩いてみたが、もう我慢が出来なくなって、通り過ぎる電車に飛び乗ってしまった。
 さて何処へ行こうかと考えてるうちに、車掌がやって来ると、私はすぐに切符を差出して、都会のうちの最も雑踏し蒸れ返り酔い爛れた方面を、前から予定の目的地ででもあるように名指したのだった。その後で、其処へ行くという志がはっきりして来た。そんな場所へでも行って、人込の中に自分を溺らしてしまうのが、その時の私の気持にぴたりと合った。
 二度乗換えをして向うに着くまで、私はもう何も考えまいとつとめた。電車を降りてからも、心当りの安価な飲食店の方へ、真直に歩いていった。そして、ぐらぐらする木の腰掛の上に腰を下して、労働者や貧乏くさい学生などの間に狭まって、一人でしきりに酒を飲んだ。もっと安価にもっと強烈なものを飲ましてくれる、カフェーの類はいくらもあったけれど、さすがにカフェーと名のつく所へははいれなかった。白い大理石やエプロンの女給などの空気よりも、薄暗い狭苦しい土間の方が、その時の私には親しみ深く思われたのである。
 そして酒を飲みながら私は、贅沢じゃない、贅沢じゃない、とそんなことを心の中で繰返していた。贅沢や気紛れであって堪るものか。他人にとってはそう見えても、私にとっては真剣なのだ。而も私のそうした苦しみの底からの反抗が、殆んど常軌を逸した行為が、何を以て報いられたか。この都会は、私が投じた波紋を平然と呑み込んで、小揺ぎ一つしなかったのだ。私がたとい幾度石を投げ込もうと、あの硝子店はすぐ元通りの姿で輝き出すことだろう。そして私一人が恐れおののいて、下宿と横町とでしめくくられた同じ道筋を、競馬の馬のようにぐるぐると逃げ走ることだろう。何というちっぽけな惨めさだろう! 一層のこと、この身体もこの生活も、そっくり都会の中に呑み込まれて、その泥土の中に埋まってしまうがいい。
 けれども、空っ腹に酒が廻るに従って、底濁りのしたうずうずしたものが、私の身内に頭をもたげてきた。今迄の鬱悶が多く精神的なものであるとするならば、此度のは多く肉体的なものだった。私はあたりの人々を見廻した。そして、底光りのする眼を輝かしてる労働者達の、どす黒い血潮を頭の中に映してみた。自然を奪われている彼等都会労働者等の生活が、如何に悲惨であるかを、私は自分がよく知ってる田舎の農夫生活と比較して、ほぼ想像することが出来た。またその悲惨な生活から醸される咽っぽい淫蕩な雰囲気をも、ほぼ想像することが出来た。人間は容易なことでは、何もかも萎びきるものではない。何かしら獣的な溌溂とした力強いものが、たとい不健全ではあっても頑丈なものが、何処かしらに湧き立ってるものである。高笑いをして舌なめずりをしてる、労働者等の幅広い肩を、私は小突き廻してやりたかった。
 活動写真が済んでしまった頃とみえて、騒々しかった表の人通りが、いつしか静まり返っていった。私は急いで残りの酒と肴とを平らげて、ぷいと外に出た。蒸し蒸しするどんよりした晩だった。空もじっとりと汗ばんでるかと思われた。煤けたままを拭き込まれて黒光りのしてる大黒柱、そういった気持を私は力強く懐いて、狭いうねうねした路次の方へ滑り込んでいった。出口のない息苦しい生活にいじめつけられた私のうちにも、なお強烈な熱っぽい力が残っていた。私は見当り次第のとある家へ、こちらからはいるともなく誘い込まれるともなく、よろよろとした酔っ払いの足取りで、臆面もなくにゅーっとはいっていった。
「誰でもいいから一人来てくれ。」
 云いすてて私は二階の狭い室に通った。が実は、誰でもいいのではなかった。私が求めているのは、健かな豊満な、殴りつけてもびくともしないような、そして抱擁力の強い肉体をであった。然しまさか、肥っちょの大きいのをとは註文しかねた。運を天に任せる気で待っていると、否待つまでのことはなく、私のすぐ後からやって来たのは、要求とはまるで反対の、身長も身柄も貧弱な小女であった。栄養不良で発育不完全な、いじけきった者のように思われた。
「君は一体いくつになるんだい。」
 四角な薄汚い餉台の前に坐った女へ、私はそう尋ねかけてみた。
「十四よ。」
 黒いしみのある味噌歯を出して薄笑いをしながら、女は尻上りの調子で答えた。
「十四……それにしちゃあよく伸びたものだね。」
「何が?」
「僕はまた十七八くらいかと思った。」
「そう。」
 気乗りのしない返辞をして、彼女は私の方をじろじろと見ていた。私もその顔を見返してやった。下卑た凸額《おでこ》の下に、どんよりした眼が凹んでいたが、口許のあたりに、濡いのある初々しさが漂っていて、だらりと餉台の上に投げ出されてる、手首から指先の肉附など、十四歳と云うのも満更嘘ではなさそうだった。
「十四やそこいらで、どうしてこんな所へ出たんだい。」
「家が困ったからよ。」
「辛くはないかい。」
「そりゃあ辛いわよ、姉さん達が私に苦労かけないようにって、名指しでないお客には、いつも私を先に出してくれるけれど、それが却って私、嫌で嫌で仕様がないわ。いつも疲《くたぶ》れてるせいか、眠くって堪らないのよ。」
「おい、滅多なことを云うなよ。客の前でそんな口を利くってことがあるか。」
「あら、御免なさい。」
 眉根を挙げ眼をぱっちり見開いて、頸筋をしなやかに傾《かし》げながら、小娘にしては喫驚するような嬌態《しな》をしてみせた。
「こんな商売を初めてから、どれくらいになるんだい。」
「まだやっと二月《ふたつき》よ。」
「嘘だろう。十四というのは本当かも知れないが、二月というのは嘘だ。」
「いいえ、本当よ。」
 十四歳というのに、多少興味を覚え出して、いろいろへまなことを尋ねかけてきた私は、そこで妙に気持がはぐれて、そのまま口を噤んでしまった。彼女も黙っていた。暫くすると、彼女はわざと子供子供した甘ったれた調子で云い出した。
「私お腹が空いちゃったから、何か食べさして下さらないこと?」
「そんなら鮨でも取ったらいいだろう。ついでにお酒を一本添えて貰うといいな。」
 彼女は立上りかけたが、俄にまた腰を下した。
「あなた、今晩泊っていっていいんでしょう。」
「いけないよ。」
「なぜ?」
「帰らなけりゃならない。」
「そんなら、一時間……」と云いかけて彼女は一寸考え込んで、「二時間ばかりにしとくわ。ね、いいでしょう。」
 私がぼんやり見返した眼に、彼女は一寸笑みを含んだ眼付を投げつけておいて、大儀そうに階段を下りていった。
 私は一人つくねんと、二十分ばかりも――或はもっと短かかったかも知れないが――空の餉台と一緒に待たせられた。仰向けに寝転んで、煙草を吹かしながら、煤けた天井の、雨漏りの跡らしい汚点を見つめてるうちに、もうそのまま永久に身を動かしたくないような気持へ、底深く沈み込んでいった。何のためにこんな家へやって来たのか? もう先程の情慾も消え失せてしまって、都会の一隅の見馴れない室に、ぽつりと投り出された自分自身だった。やがて彼女が鮨の皿と銚子と豌豆豆の小皿とを運んできても、私はやはり寝そべったまま身を起そうともしなかった。酒が冷えてしまうと再三促されてから、漸く上半身を起した。
「怒ったの?」
 私は返辞をしなかった。
「どうしたのよ、黙りこくってて。何か怒ったの?」
「あんなに待たせられてさ、腹も立とうじゃないか。」
「ほんとに御免なさい。お誂えのものがなかなか来なかったんですもの。」
 そして私が杯を取上げると、彼女はそのお誂えの鮨をむしゃむしゃ食べ初めた。
「あら、まだ怒ってるのね、こんなに謝ってるのに。」
「謝り方が足りないよ。」
 心にもないすね方をしてはみたものの、実はそんな所に気持がこだわってるのではなかった。じっとしてるのが堪らなくなった。
「ねえ、君は、僕が一緒に連れて逃げると云ったら、ついてくるかい。」
「ええ、いくわ。」
「じゃあ、一緒に死のうと云ったら?」
「死んだって構わないわ。」
「そんなら、君だけを僕が締め殺すと云ったら?」
「いやあよ、一人っきりじゃ!」
「とうとう本音を吐いたね。締め殺してやるからこっちにお出でよ。」
「いくもんですか。」
「屹度来ないね。」
「ええ。」
 高慢ちきな鼻をつんと反らして、凹んだ眼で睥み返してくるのを、私はつと身を起して引捉え、膝の上に抱き上げてやった。力を籠めて掴んだら折れそうな、肉のつかない細い腕だった。ただ乳房だけが着物の上からも、むっちりと膨らんで感ぜられた。そして私は、ふふんと云った顔付で身体を任してるこの小さな娘を、どうしてくれようかと残忍な方法を考え廻した。それは虐げられた者に対する腹癒せであり、また自分自身に対する腹癒せであった。
 それから私は、帰ると云ってた言葉も忘れて、夜明け近くまでうとうとと眠った。
 眼を覚すと、五燭の電燈が変に赤くぼんやりとしていて、遠い汽笛の音や何かの響が、夜明け近い気配を齎らしてきた。私は上半身を起して、傍に寝乱れている小娘の顔を見守った。取返しのつかない気恥しいことをしてしまった、というような忌々しさが湧き上ってきた。私は女を揺り起そうとした。彼女は片手をうんと伸して、心持ち薄目を開きかけたが、またすやすやと眠ってしまった。私は本当に起き上って、帯をしめ直して煙草を吸った。そしてまた女を揺ぶった。それでも彼女は眼を開かなかった。私はそのまま逃げ出してしまいたかった。雨戸をそっと開いて逃げていっても、誰にも気付かれないかも知れない、と思う心が自分ながら浅間しくなって、も一度強く女を揺ぶり、眼を覚しかけた所を、更に頬辺《ほっぺた》を一つ叩いてやった。彼女は喫驚して飛び起き、私をまじまじと眺めていたが、ふいに云い出した。
「あなた私を打《ぶ》った。」
「打ったさ。いくら揺ぶっても起きないじゃないか。眼が覚めなけりゃも一つ打ってやろうか。」
「なに、打つなら打ってごらん。さあ打てるものなら
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング