取りが妙に浮わついて乱れていた。どう逃げたら一番安全かと、そんなことを頭の片隅で考えていた。この都会の隅々まで警察の手が行き渡ってることを、私は新聞紙上でよく知っていた。まごまごしてる場合でないと思った。自分の下宿にじっとしてるのが、一番安全だという気がした。遠い曲りくねった迂回をしながら、私は下宿へ帰ってきた。そして下宿の格子戸に手をかけてから、私は初めて後を振返ってみたのである。それまで一度も後が振向けなかった。
お上さんが出て来て、食事は? と聞いたのに対して、もう済してきたと私は答えた。それから自分の室に暫くじっとしていたが、どうも心の落付が悪くて、皆の――と云っても、素人下宿のことで下宿人は三人しか居なかったが――皆の集合室みたいになってる茶の間へ出て行った。哲学を研究してるとかいう大学生が一人、長火鉢の前で退屈そうに煙草を吹かしていた。お上さんは隅っこの方で針仕事をしていた。私は大学生の向うに長火鉢の側に坐った。そして二人で、大凡次のような対話をした。
「一体、何かある興味のために、と云っちゃ変ですが、まあ或る気持のために、……例えば、人を殺すとしましたら、その人殺しは、
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