の中には、何かしら賑やかな雑踏の方へと、渦巻き濁った蒸《む》れ臭い方へと、人を引き寄せる誘いがある。それが都会の蠱惑である。
 私はその蠱惑にかかって、ただぼんやり歩いてるうちに、ひしと心に迫る淋しさを覚えてきた。そしてしきりに顧みさせられる自分自身の姿は、自然から根こぎにされ都会から窒息されかかってる、惨め極まるものだった。深い憂欝に胸が塞がれて、何とも云えない息苦しさを肉体的にまで覚え初めた。然し私とても、愛する妻や子や温い家庭があり、またはやさしい恋人があったら……否そういうものはなくとも、変化と余裕とのある生活と金とさえあったら、揚々として都会の大通りを活歩したかも知れない。或はそういう生活と金とが、私一人の所有でなくとも、せめて万人の共有であって、私も自分の分前だけそれを享有することが出来たら、私は恐らく息苦しさを覚えないで済んだであろう。……そんなことを考えながら、而も遠い夢の国のことをでも考えるような風に考えながら、私は益々自分自身や凡てのものが忌々しくなってきた。そして窒息する者が四肢を振り動かすような、そんな風な身振で、通行人の頭を殴りつけるか、街路樹にぶつかってゆくか、何かしら異常な力一杯なことがしてみたくなった。また初ったなと自分でも気付きながら、疾走する自動車を見送っては、活動写真で見た通りに、それを一挙に爆発し粉砕してみたかった。そして恐らく、自分自身が最も爆発したかったのかも知れない。
 然し、そのまま何事もなかったら、私はわくわくしながらも、いつしか力無く首垂れて、すごすごと下宿へ帰ってゆき、翌日また出勤するために、おとなしく眠ってしまっただろう。所が……。偶然ほど恐ろしいものはない。偶然の一寸したきっかけで、人の心は右か左か方向を変えてしまうことがある。私の知ってる或る男は、柿を取るために大きな柿の木の頂に登って、落ちると危いなと思いながら、両手で枝にしっかとつかまった拍子に、熟した柿が一つぽたりと落ちたのを、ちらりと見た瞬間に気が変って、両手を離してしまったので、その高い所から転げ落ちて、足を挫いたことがある。また、私が間接に知ってる或る男は、自殺を決心して鉄道線路へ出かけ、暮れて間もない淡い月の光に、轢死すべき場所を見定め、汽車が来たならば飛び込もうと、傍の藪影に潜んで待っていると、足許から小さな蛇が匐い出して、線路の上をのっそりと乗り越していったので、何ということもなく気が変って、死ぬのを止してしまったことがある。
 それはそれとして、私が憤ろしい眼をじっと前方に見据えて、人道の端を歩いていると、一匹の小さな仔犬が、雑閙の間にまぎれて、丸く反らした尻尾の先を打振りながら、車道の中へよたよたと下りていった。真白な毛並に赤の斑《ぶち》がある、円々と肥った仔犬だった。可愛いい犬だな、と思ってると、其処へ一台の自動車が疾走してきて、あっというまに、太々しい警戒喇叭の音と鋭い犬の悲鳴とが、同時に起った。そして一寸振返った運転手の、没表情な顔付をのせてる自動車は、一時ゆるめた速力をまた取返して、つつーと走り過ぎてゆき、その後にぱっと立つ油煙の中から、ふいに仔犬が飛び出してきた。飛びだしてまたも一度飛び上ったが、それからころころと転げて、なお鳴き続けながら、今度は三足で起き上って、血の滴る一本の後足を引きずって、よろけながらも案外早く、暗い路次の中へ消えていった。五六人の者が立止って、ぶらりと垂れて血の滴る仔犬の足を、ぼんやり見送っていた。私もその一人だった。犬の姿が路次の中に消えると、私は我知らず其処まで走っていった。奥深そうな狭苦しい暗い路次であって、きゃんきゃんいう仔犬の悲鳴が、路次一杯に反響して吐き出されてきた。と思ったのは僅かな間で、やがてしいんと静まり返った。その静けさから、私はぞっと身が竦むような感じを受けた。
 やがて私は、両手を懐につっ込んで、一歩一歩踏みしめるような足取りで歩き出した。折り挫かれた仔犬の足の痛みを、自分の身内に感じていた。そしてまた、ああいう人通りの中で、犬の足を轢いたまま無事に逃げてゆけるとすれば、兎に角早く逃げさえすれば、何をしたって大丈夫だ、とそんなことも考えていた。それからまた、何かしら血腥い異常な興奮にも駆られていた。昔子供の頃田舎で、蛙を捉えてきて蛇に呑ませ、円く脹らんだ蛇の喉元を木片で逆にこすり上げて、蛙をまた吐き出させ、半死半生の蛙が漸くに飛んで逃げるのを見て、髪の毛がぞっとするような喜びを味った、あれと同じような、残忍な毒々しい興奮だった。
 そして暫くして私は、自分が或る一人の男の後をつけてることに気付いた。それは肺病やみらしく痩せ細ってる、背広をつけた中年の男だった。古ぼけた麦稈帽の下から、日に透したら血管が浮いていそうな耳朶と[#「耳朶と」は底
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