、堪らなく陰鬱なまた苛立たしい気持になっていった。幸福でも不吉でもいいから、力一杯胸一杯のものがほしかった。余儀なく引きずられてゆくような息苦しい生活は、思っても堪らなかった。そして私は、もう外に出る気もなくなって、その楽しかるべき日曜を、薄暗い三畳の室に寝転んで、疲憊しきった惨めな焦慮のうちに、午後の三時頃まで過してしまった。その時、国許の兄から手紙が来た。「親展」と大書してあった。何事だろう? と咄嗟に考えたが、次の瞬間には、兄はどんな手紙にも必ず「親展」と書き誌す癖があることを思い出して、何だかはぐらかされたような気持になり、別に急ぐでもなくまた急がぬでもなく、封を切って読んでみた。
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よほど暑気に相向い候処其許様にも相変らず御無事のことと存上候内方一同元気に御座候間御安心下され度父上も例の通り御達者にていつも野良に出て若者も及ばぬほど働き居られ候健作も日ましに大きくなり此頃にては外の仕事にも連れ行き居り候川の土堤などにてわるさをして困り妻女はその方に気を取られて碌に仕事に手もつかぬほどの次第に有之候晩にはいつも其許様のうわさを皆して申居候此節少しも御便りなく父上始め皆々心配につき御様子御知らせ下され度候これより追々暑くなること故水あたり食あたりなどされぬよう呉々も御用心のほど願上候庄兵衛方の女馬に子供生れて村中の者珍らしがり居り候内の馬も至極壮健にて夕方河原などを駆けさせるは面白きものに御座候万事用心第一に御成功のほど祈上候
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先の切れた筆で太く書きしるされてる兄の手紙を見ながら、私は遠い夢をでも思い起すような気で、故郷の自然を思い出した。円い石が一面に並んでる清らかな河原、青々とした広い田畑、眼の届く限り大きく拡がってる青空、空に去来する雲……その雲を見るのが私は一番好きだった。雲を見てどうするのか? と母は幼い私に向って度々云ったものだった……。
それからそれへと思い出に耽ってるうちに、私の頭の中にはいつしか、二つの小さなものがぽつりと据えられていた。何もかも遠くぼんやりとしてる中に、その二つだけが、如何にも小さくはあるが、如何にもはっきり浮び出していた。その一つは、広い自然の中に埋もれて、額の汗で自分の食物を育て上げてる、兄の小さな姿だった。他の一つは、自然の中から根こぎにされて、都会の人波の中に溺れながら齷齪してる、自分自身の小さな姿だった。そして私は、久しぶりで人間らしいしみじみとした気持になって、兄へ手紙を書き初めた。
所が、その手紙がどうしても出来上らなかった。一通り時候の挨拶や無沙汰の詫びなどをして、さてその次に書くべき事柄が見当らなかった。近頃の様子を知らしてくれと兄は云ってるが、何を今改まって知らせるべきことがあったろうか? 朝起きてから夜眠るまでの、毎日同じような生活をか? いやそんなことは兄が既によく知ってる事柄である。何にも変ったことはないと云えばそれまでだけれど、田舎の生活と違って都会の生活では、変らないということは文字通りに無変化を意味する。それが兄に分るものか。いや兄ばかりではない、そういう生活を自らした者以外には、誰にだって分りはしない。
私は書きかけの手紙を裂き捨てて、立上って室の中を歩き廻ったが、そのままの足でふらりと外に出た。然し私がそうして街路を歩いたのは、ただ運動のための散歩や、苦しい思いに駆られた歩行などとは全く異った意味のものだった。私は室の中を歩き廻ってるうちに、地面の上を、しっかりした大地の上を、馬のようにぽかっぽかっと歩いてみたくなったのである。出来ることならば、冷々とした黒土の上を跣足で踏みつけてみたかった。余し外に出てみると、跣足になることが出来なかったばかりでなく、私の足は自ら、賑やかな大通りの方へ向いてしまった。
陰欝な曇り日の、夕方近い薄ら影に包まれた街路は、妙に落付きのない雑踏を示していた。人道にも、車道にも、異った二つの調子が現われていた。やけに速力を早めた自動車や自転車と、ゆるゆると歩いてる空の荷馬車とが、不調和に入れ乱れていたし、また、煙草でもふかしながら――実際に紙巻をくわえてる者もそうでない者もあったが――ぶらりぶらり歩いてる人々と、何か風呂敷包でも下げながら――実際に荷物を持ってる者もそうでない者もあったが――慌しげに小足を早めてる人々とが、くっきりと際立っていた。それからどの電車も、停留場毎に停っては、客を吐き出したり呑み込んだりしながら、いつも溢れるばかりの満員だった。それらのごたごたした混雑の中に、干乾びたアスファルトの上に、私は自分を見出して、何のためにこんな所へ出て来たのかと、惘然としてしまった。大地の肌に触れたければ、寧ろ閑静な裏通りの方へでも行くべきではなかったか。然し都会
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