本では「耳孕と」]、艶のない蒼ざめた頬の皮膚とが、ちらちらと見えていて、そのあたりへ、私の眼は熱っぽく据えられており、私の両の拳は、懐の中で握りしめられていた。私はその男の横っ面を、がーんと一つ引っ叩いてやるつもりだったらしい。何故だったか?……余りに人間が多すぎる。機械的な生活に窒息されかかってる人間が多すぎる。そして、この男も自分自身も、余りに惨めすぎる。出口がほしい、この息苦しさからの出口がほしい……。そういった感じに私は浸り込んでいた。
その時、私はふと足を止めた。眼の前の惨めな男を殴りつけるという意志に、次第にはっきり気付いてきて、実際それを決行するかも知れないという恐れから、無理に引離した自分の視線が、丁度向う側の、硝子器具を商う店の中に落ちたのだった。金魚鉢や其他の容器を並べた棚、コップの類を並べた棚、花瓶や電気の笠や其他の装飾品を並べた棚、一番奥には、鏡の類を立並べた台、その外いろんなものが所狭いまでに並んでいて、真中の上り框《がまち》に、頭の頂の禿げかかった番頭が一人、ぽつねんと坐っていて、それらのものの上方に、幾つもの電燈が煌々とともされ――実を云うと、私はその時に初めて、もう電燈や瓦斯が店先や街路についてるのを気付いたのだったが――その光がまた、凡ての硝子器に反映して、店の中がまるできらきらした玻璃宮を現出していた。そして可笑しなことには、私の頭の中がまた、胸の中はもやもやと沸き立ってるにも拘らず、それらの硝子器と同じに、冴え返って澄みきっていた。地震でもして、その玻璃宮がめちゃめちゃに壊れたら、胸の中もすーっとするかも知れない、などと私は馬鹿げたことを考えたが、それは実は馬鹿げたことではなくて、いやに真剣だった。構うものか、やっつけてやれ! そう私は咄嗟に決心してしまった。そしてすぐに実行した。息苦しく鬱積してきた自分の気持に、何かの出口を穿たずには、どうしてもいられなかったのである。
硝子店と反対の側の正面から、少しわきに寄った所に、薄暗い横町があった。私はその横町にはいっていって、暫くして何気ない風に屈みながら、両手に小石を一つずつ拾い取り、その手を袂の中に忍ばせて、また横町の出口まで戻ってきた。大通りを通る人々のうち、横町の方へ眼を配る者はいなかったし、薄暗い横町の中には、人影も見えなかった。或は私の方を見てる者があったとしても、私はその注意の僅かな隙間を窺って、やはり決行していただろう。横町の出口につっ立って、一寸あたりを見廻して、私は右手を振上げざま、向うの硝子店の中の大鏡を目標に、力の限り投げつけてやった。続いてすぐに、左手のやや大きな石塊《いしころ》をも、右手に取って投げつけた。石は何処に落ちたか分らなかったが、ぱっと硝子の壊れる気配がして、次にはやや大きく、硝子の破片が四方に乱れ飛ぶ、痛快な響とも光ともつかない擾乱が、静まり返ってる玻璃宮の中に起った。とその瞬間に、番頭がすっくと立上った。馬鹿に背の高い大男で、私の方をまともにじっと睨みつけたようだった。
それだけのことを見て取って、何故にか、私は膝頭がぶるぶる震えるのを覚えた。そして結果をよく見定める隙もなく、つと身を飜して、足を早めて逃げ出した。横町を暫く行って、右に曲りまた左に曲って、出来るだけ跡をくらまそうとした。その時私の気持には、雑多なものが入り乱れて、さっぱりけじめがつかなかった。胸の中に洞穴があいたように、すーっと風が吹き通っていた。頭の中が熱くほてっていた。何かしらしきりに気懸りなものがあった。胎《はら》がしっかりと落付いてるのに、足取りが妙に浮わついて乱れていた。どう逃げたら一番安全かと、そんなことを頭の片隅で考えていた。この都会の隅々まで警察の手が行き渡ってることを、私は新聞紙上でよく知っていた。まごまごしてる場合でないと思った。自分の下宿にじっとしてるのが、一番安全だという気がした。遠い曲りくねった迂回をしながら、私は下宿へ帰ってきた。そして下宿の格子戸に手をかけてから、私は初めて後を振返ってみたのである。それまで一度も後が振向けなかった。
お上さんが出て来て、食事は? と聞いたのに対して、もう済してきたと私は答えた。それから自分の室に暫くじっとしていたが、どうも心の落付が悪くて、皆の――と云っても、素人下宿のことで下宿人は三人しか居なかったが――皆の集合室みたいになってる茶の間へ出て行った。哲学を研究してるとかいう大学生が一人、長火鉢の前で退屈そうに煙草を吹かしていた。お上さんは隅っこの方で針仕事をしていた。私は大学生の向うに長火鉢の側に坐った。そして二人で、大凡次のような対話をした。
「一体、何かある興味のために、と云っちゃ変ですが、まあ或る気持のために、……例えば、人を殺すとしましたら、その人殺しは、
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