はその注意の僅かな隙間を窺って、やはり決行していただろう。横町の出口につっ立って、一寸あたりを見廻して、私は右手を振上げざま、向うの硝子店の中の大鏡を目標に、力の限り投げつけてやった。続いてすぐに、左手のやや大きな石塊《いしころ》をも、右手に取って投げつけた。石は何処に落ちたか分らなかったが、ぱっと硝子の壊れる気配がして、次にはやや大きく、硝子の破片が四方に乱れ飛ぶ、痛快な響とも光ともつかない擾乱が、静まり返ってる玻璃宮の中に起った。とその瞬間に、番頭がすっくと立上った。馬鹿に背の高い大男で、私の方をまともにじっと睨みつけたようだった。
それだけのことを見て取って、何故にか、私は膝頭がぶるぶる震えるのを覚えた。そして結果をよく見定める隙もなく、つと身を飜して、足を早めて逃げ出した。横町を暫く行って、右に曲りまた左に曲って、出来るだけ跡をくらまそうとした。その時私の気持には、雑多なものが入り乱れて、さっぱりけじめがつかなかった。胸の中に洞穴があいたように、すーっと風が吹き通っていた。頭の中が熱くほてっていた。何かしらしきりに気懸りなものがあった。胎《はら》がしっかりと落付いてるのに、足取りが妙に浮わついて乱れていた。どう逃げたら一番安全かと、そんなことを頭の片隅で考えていた。この都会の隅々まで警察の手が行き渡ってることを、私は新聞紙上でよく知っていた。まごまごしてる場合でないと思った。自分の下宿にじっとしてるのが、一番安全だという気がした。遠い曲りくねった迂回をしながら、私は下宿へ帰ってきた。そして下宿の格子戸に手をかけてから、私は初めて後を振返ってみたのである。それまで一度も後が振向けなかった。
お上さんが出て来て、食事は? と聞いたのに対して、もう済してきたと私は答えた。それから自分の室に暫くじっとしていたが、どうも心の落付が悪くて、皆の――と云っても、素人下宿のことで下宿人は三人しか居なかったが――皆の集合室みたいになってる茶の間へ出て行った。哲学を研究してるとかいう大学生が一人、長火鉢の前で退屈そうに煙草を吹かしていた。お上さんは隅っこの方で針仕事をしていた。私は大学生の向うに長火鉢の側に坐った。そして二人で、大凡次のような対話をした。
「一体、何かある興味のために、と云っちゃ変ですが、まあ或る気持のために、……例えば、人を殺すとしましたら、その人殺しは、
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