と乗り越していったので、何ということもなく気が変って、死ぬのを止してしまったことがある。
 それはそれとして、私が憤ろしい眼をじっと前方に見据えて、人道の端を歩いていると、一匹の小さな仔犬が、雑閙の間にまぎれて、丸く反らした尻尾の先を打振りながら、車道の中へよたよたと下りていった。真白な毛並に赤の斑《ぶち》がある、円々と肥った仔犬だった。可愛いい犬だな、と思ってると、其処へ一台の自動車が疾走してきて、あっというまに、太々しい警戒喇叭の音と鋭い犬の悲鳴とが、同時に起った。そして一寸振返った運転手の、没表情な顔付をのせてる自動車は、一時ゆるめた速力をまた取返して、つつーと走り過ぎてゆき、その後にぱっと立つ油煙の中から、ふいに仔犬が飛び出してきた。飛びだしてまたも一度飛び上ったが、それからころころと転げて、なお鳴き続けながら、今度は三足で起き上って、血の滴る一本の後足を引きずって、よろけながらも案外早く、暗い路次の中へ消えていった。五六人の者が立止って、ぶらりと垂れて血の滴る仔犬の足を、ぼんやり見送っていた。私もその一人だった。犬の姿が路次の中に消えると、私は我知らず其処まで走っていった。奥深そうな狭苦しい暗い路次であって、きゃんきゃんいう仔犬の悲鳴が、路次一杯に反響して吐き出されてきた。と思ったのは僅かな間で、やがてしいんと静まり返った。その静けさから、私はぞっと身が竦むような感じを受けた。
 やがて私は、両手を懐につっ込んで、一歩一歩踏みしめるような足取りで歩き出した。折り挫かれた仔犬の足の痛みを、自分の身内に感じていた。そしてまた、ああいう人通りの中で、犬の足を轢いたまま無事に逃げてゆけるとすれば、兎に角早く逃げさえすれば、何をしたって大丈夫だ、とそんなことも考えていた。それからまた、何かしら血腥い異常な興奮にも駆られていた。昔子供の頃田舎で、蛙を捉えてきて蛇に呑ませ、円く脹らんだ蛇の喉元を木片で逆にこすり上げて、蛙をまた吐き出させ、半死半生の蛙が漸くに飛んで逃げるのを見て、髪の毛がぞっとするような喜びを味った、あれと同じような、残忍な毒々しい興奮だった。
 そして暫くして私は、自分が或る一人の男の後をつけてることに気付いた。それは肺病やみらしく痩せ細ってる、背広をつけた中年の男だった。古ぼけた麦稈帽の下から、日に透したら血管が浮いていそうな耳朶と[#「耳朶と」は底
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