ている。
 ――はて……。
 見廻すと、向うの方で木谷が、キューにチョークをつけながら、何やら目配せをしていた。その目配せが、急にさし招くような上目睥みに変った。
 ――何かしくじったのかな。
 と同時に、変にぎくりとした。
「いや……失敬。」
 彼女は立上って、いやに丁寧なお辞儀をした。
「どうだい、調子は……。」
 木谷の方へやって来ながら、僕はそんな風に平気を装ったが、何かしら落着けなかった。お久の方を偸み見ると、斜め向う向きに、束髪の大きな鼈甲ピンをつんとさして、固くなって控えている。
 ――ふん、何だい。
 何がともなく癪にさわるので、木谷に代ってキューを手にした。が固より、初歩の域をいくらも脱しない腕前だったし、当りのよい筈はなかった。それに、相手の中年の男が、特別に落着払っていた。日焼けではなく元来の肌色らしい色黒の男で、狭い額のあたりが一際黒くて、憂鬱な影を湛えてるように見え、小さい円い眼がきょとんと黒ずんでいて、少し長すぎるらしい両腕を、蟹の足みたいに曲げる癖があって、その全体の感じに、ロシア的な薄暗い影がこもっていた。にも拘らず、頬の肉はいつも笑みを刻んでいる。
 
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