なにまでして、仲いいところを見せつけなくったって……。あ、私ですか。」
 木谷がキューを取上げると、僕は一人で回想するのである。――当時平川は、お久に一寸気を惹かれて、しげしげカフェーに通ったものだった。その平川に向って、お久はよく伊坂のことを話した。どうも本気らしいから、あたし迷ってる最中だとか、嫌だけれど仕方がないとか、家の近くを夜遅くまでうろつき廻るんだとか……。
「おかしいんだよ君。」と木谷は声も低めずに云うのである。
「伊坂が球撞にこって、夜遅くまで家に戻らないのが、細君は嫌でたまらないらしいんだ。球撞ぐらい、いくらこったってよさそうなものじゃないか。それを、嫉妬……といっちゃ悪いか知れないが、気に病んで、十時頃になると、屹度自分でああして迎いに来るんだそうだ。」
 或る時――これは前の方の話だが――伊坂は夜更けまでカフェーの前をうろつき廻っていて、巡査に咎められたことがあったそうである。お久は住み込みの女給になっていたが、そのカフェーが戸を締めて、すっかり寝静まってしまっても、何故か伊坂は付近から立去らなかった。春と云ってもまだ寒い夜のことで、もう人通りも絶えてしまったその往来を、犬のようにうそうそ歩いてるので、通りがかりの巡査が見咎めると、伊坂の答えが振っていた。実はこのカフェーに、自分の遠縁に当る女給がいて、夜分変な男がよく呼び出しに来て困るというから、一寸見廻ってたところだ……と。その巡査が翌日カフェーにやって来たので、話はぱっとなった。よく聞いてみると、実意を見せて下すったら……とお久が伊坂に約束したとか。
「一時遁れのでたらめな約束をして、あたし困っちゃったわ。でもまさかそうもいえないから、やっぱり、遠縁に当る人だって答えたんだけれど、冷汗をかいちゃったのよ。」
 だが、話の本当の筋途は平川にも僕にも分らなかった。そして、巡査を利用して実意を示すという伊坂のやり口だけが、噂の種に残ったのだが……。
「君も随分むてっぽうだな。何の見境もなく、いきなり人の細君に馴々しく話しかけるなんて……。」
 前につっ立ってそんなことをいってる木谷の顔を、僕は回想から覚めて、ぼんやり見上げていた。
「僕はわきでひやひやしちゃったよ。ひょんなことを君が饒舌り出しやしないかと思って……。」
「だが僕達の間では、随分話の種の多い女なんだからね。」
「それにしたって……。」
「それじゃあ、こんなところにやって来なけりゃいいさ。カフェーと撞球場とは、多少客が共通してるから、いつ誰に出逢うか分ったものじゃない。」
「いや、そういう危険を冒してまで男を迎いに来る、その意気を買ってやらなくちゃあね。」
「そりゃ買ってやるが。」
「木谷さん、球の方は……。」
 木谷の相手の男は、そういって促しながら、変に憂鬱な様子になっていた。
「済みません。」
 木谷が球の方へ向き直ると、男はなおじっと僕の方を見ながら、言葉だけを木谷へ向けた。
「そりゃあ、そう云ったものではないでしょう。伊坂さんだって、奥さんだって、いつどんな人間に出逢ってどんな話をされるか分らない、そういう覚悟はちゃんとついてるですよ。だからああして出て来るのでしょう。昔の馴染に出逢うことが、二人には却って嬉しいのかも知れませんよ。」
「え、嬉しいって……。」
 木谷は球台から向き返った。
「昔馴染に出逢っていろいろなことがあれば、それが気晴しになったり、退屈ざましになったり、お互の気持がですね、こう……。」
「なるほど、恋の勝利者という意識が新たになって、なお深く互に結びつくというわけですか。」
「まあ云ってみれば、そんなものかも知れません。」
「驚いたな、佐藤さんに恋愛の解説とは……。」
 佐藤と呼ばれた彼は、木谷の皮肉な語気を平気な顔付で受流したが、どういうものか、益々陰鬱な感じになっていた。云わば、穏かな頬の微笑が陰鬱な額の曇りに包みこまれたような風だった。そしてそこに、撞球場なんかに不似合なロシア的な而も痩腕を変に彎曲したひょろ長い姿で、機械的な笑みを頬の肉に刻んでるのである。
「ねえ、千代ちゃん。君が、何だ、例えば木谷さんと恋をして、世帯を持って、願いが叶ったとして、それから、暫くたって、昔馴染のお客さんなんかに出逢って、おいどうだい、なんて話しかけられたとしたら、嬉しいか嫌か……まあ嬉しい方が多いだろうよ、ねえそうだろう。」
 ぼんやり皆の話を聞いてた年若なお千代は、突然話の先を向けられて、甘ったるい眼付を瞬《またた》いたが、ふいに早口に叫んだ。
「あら、嫌な佐藤さん。」
 拍子ぬけのするくらい間を置いたその叫びに、佐藤さんは初めて、機械的でない笑みを浮べた。
「おう喫驚した、何だい。」
 木谷は全く拍子ぬけがしたらしく、わざとらしい口を利いて、思い出したようにキューを
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