取上げた。
「なあに、たとえ話だよ。」ゆっくりと云ってのけて、佐藤さんは僕の方へ向き直った。「私はあなたが、もっと無遠慮に口を利かれたら面白いと思って、待っていたのですが、案外つまらなく終ってしまって……。ですが、誰も遠慮ばかりしてるところだったので、愉快でした。これからは、伊坂さんも気兼がなくなって、来易いでしょうよ。」
 先程の陰鬱な感じが消えて、彼は実際愉快そうな顔付をしていた。黒い額と眼とが輝きを帯びてるように見えた。
 僕は一寸挨拶に困って、それから妙に恐縮した。
「いや、とんだ不作法なことをしてしまって、弱りました。」
「不作法なものですか。気が弱くちゃいけません。」
 僕はそこで、頭ごなしにやっつけられた気がして、黙りこんでしまった。
 ところが、やりかけのゲームを初めてるうちに、木谷は僕のところにやって来て、顔を近寄せて囁いた。
「先生、あんなことをいってるが、伊坂の細君が来ると、すっかり固くなってね、ちっとも球が当らないんだぜ。可笑しなものさ。」
「馬鹿な。」
 僕は口の中で呟いて、額に薄暗い曇りを湛えながら愉快そうに球を撞いてる佐藤の方を、ぼんやり眺めやった。何だか気持がふわふわしてきた。立上っていって、店の方へ通ずる硝子戸を開けると、年上の女中が、そこの片隅で針仕事をしていた。
「ハバナの細巻を一本くれないか。」
 それを貰って、火をつけながら元の席に戻ってきた。香りの高い煙が、真白な天井へゆるく立昇っていった。
「どうです。」
「当りが出て来ましたね。」
 木谷は佐藤に応答しながら、僕の方へじろりと皮肉な眼付を向けた。僕は知らん顔をして、煙の行方を見守っていた。話はとぎれた。コーンコンという象牙球の音、眠そうなそれでも澄んだ数取りの声、明るい静かな広間、その中に凡てがいい気持に落着いていって、ハバナの煙の上から、阿亀の面がにこやかに見下していた。黒い薄い髪、赤い小さな口、小高い狭い額、ふくれ上った両の頬、その頬の真中に、まんまるく深い靨が掘られていた。その靨の穴に見入っていると、ふと、三角形の据りのいい顔全体が、にこっと笑った。おや、と思ってよく見ると、ハバナの煙の向うから、またにこにこっと笑った。
「おい、何を独りで笑ってるんだい。」
 木谷に声をかけられて我に返ると、頬に笑いが上ってくるのがはっきり意識された。
「はははは……。」
 抵抗しきれないで声に出して笑ってのけて、僕は元気よく立上った。
「こんどは僕も入れてくれ。三人撞でいこうよ。」
 木谷はまるい眼をした。が佐藤は、黒い額と眼とを光らして、天井をでも仰ぐような恰好に首を反らせた。
「宜しい、やりましょう。」
 立上ったとたんに、窓から覗いてみると、外はやはり濛々とした霧だった。

 その時は実際、阿亀の面が本当に笑っていた――と佐竹謙次郎はいうのである。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「文芸春秋」
   1925(大正14)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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