」
「へえー……。」
「今ね、家をもってるのよ。」
笑いかけた眼付へ、とたんにぶっつけられたその言葉が、低く、説きさとすような調子に響いたので、持ってゆきどころのない気持から、ぼんやりと眼と口とを打開いた。と、彼女はくしゃくしゃな顰め顔をした。目玉を寄せ、眉根を寄せ、頬辺と口許とを歪めて、怒ってるのか笑ってるのか分らない、痙攣的な顰め顔だった。
「それは……。」
お目出度い……という言葉が口から出なくて、変にこじれてくると、やがて、彼女の方がじれ出したらしく、足をばたりばたりやり初めた。
「お目出度いね。」
漸くいってしまって、ほっとしたはずみに、ふと気付いたのだが、室の中の注意がこちらに向いていた。
一体、撞球場の中の空気というものは変梃だ。凡ての中心が球にある。中にいる者は固より、飛びこんでいったばかりの者まで、意識がみな球の方へ吸い寄せられる。親しい顔がずらりと並んでいても、ふと眼の向いたものと機械的な会釈が交わされるだけで、みな全くの他人で土偶《でく》に等しく、球だけが生々と活躍して、あらゆるものの中心となる。それが今、どうしたことか、皆の注意が球を外れて、僕の方へ向いている。
――はて……。
見廻すと、向うの方で木谷が、キューにチョークをつけながら、何やら目配せをしていた。その目配せが、急にさし招くような上目睥みに変った。
――何かしくじったのかな。
と同時に、変にぎくりとした。
「いや……失敬。」
彼女は立上って、いやに丁寧なお辞儀をした。
「どうだい、調子は……。」
木谷の方へやって来ながら、僕はそんな風に平気を装ったが、何かしら落着けなかった。お久の方を偸み見ると、斜め向う向きに、束髪の大きな鼈甲ピンをつんとさして、固くなって控えている。
――ふん、何だい。
何がともなく癪にさわるので、木谷に代ってキューを手にした。が固より、初歩の域をいくらも脱しない腕前だったし、当りのよい筈はなかった。それに、相手の中年の男が、特別に落着払っていた。日焼けではなく元来の肌色らしい色黒の男で、狭い額のあたりが一際黒くて、憂鬱な影を湛えてるように見え、小さい円い眼がきょとんと黒ずんでいて、少し長すぎるらしい両腕を、蟹の足みたいに曲げる癖があって、その全体の感じに、ロシア的な薄暗い影がこもっていた。にも拘らず、頬の肉はいつも笑みを刻んでいる。
その男の、全体の陰鬱な感じと、穏かな微笑とが、別々になって僕に働きかけてきた。その上、向うにお久が澄しこんでることも、始終意識にひっかかってきた。それを、がむしゃらに押しきって、強いばら球ばかりを撞いてやった。
一回負けて、二回目にはいった時、他方の台の青年は、ゲームを止して帰りかけた。
「行こう。」
そういう言葉が耳についたので、ちらと見やると、青年のうちの一人が、お久と連れ立って出て行こうとしていた。
――なあーんだ。
二人は見返りもしないで、肩を並べて出て行った。
僕は二回も負け、こんどは木谷が相手をしようというのを郤けて、球の方は木谷と中年の男とに任したままぼんやり考えこんだ。残された青年の一人が、暫くつっ立って球をいじっていたが、やがてつまらなそうに帰っていった。
――彼奴かな。
お久と一緒に出て行った青年の姿が、初めは気にも留めなかったが、その時になって、はっきり頭の中に描き出された。青年といっても、学生といっても、学生と会社員との中間に当るくらいの年配と様子とで、セルの着物を一枚無造作にひっかけた恰好が、肩の骨立った張り工合から、腰の薄べったい痩せ工合など、呼吸器でも悪そうな風の男で、細面の顔が蒼白かった。始終知らん顔をして、目交え一つしなかったが、二人で並んで出て行った様子を見ると、お久と家をもってるのらしい。
「あの男ね……先刻出ていった……あれは、始終ここに来るのかい。」
木谷が側に来た時、僕はそう聞いてみた。
「ああ、常連の一人だよ。伊坂といって、球はなかなか強いんだ。」
「伊坂……。」
――あの男か。
お久がカフェーに出ていた頃、始終つけ狙ってる男があった。それがたしか、伊坂というのだった。
「うるさくって、面倒くさくって、本当に仕様がないのよ。……あら、あたしの方は何でもないわよ。」
平川や僕を相手に、お久はそういって笑っていたのだが……。
「君、知ってるのかい、あの女を。」
木谷は球を外すと、相手が撞いてる間僕の側にやってきて、薄ら笑いをしながら、いろんなことを饒舌っていった。
「あれは君、伊坂の細君なんだぜ。もとはカフェーに出てたとかいう噂なんだが、家をもっても、どこかそういった様子が残ってるようだね。こんなところにまで、図々しく押しかけて来たりしたりしてね。勿論、自分で来なけりゃ人がいないのかも知れないが、そん
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