い。」
「くり返しお礼を言って、それから、御気嫌よろしゅう、と言いました。」
「なに、御気嫌よろしゅう………まるで貴婦人みたいじゃないか。」
 久子さんは気を悪くしたらしく、黙りこんでしまった。――それからずっと、彼女はあまり口を利かなかったようだ。ちょっと気が立って、中途で機嫌をわるくし、そのまま人形めいた平常に滑りこんだのであろうか。
 俺ははじめて口を開いた。
「貴婦人でそして無筆だろう。手紙が書けないものだから、口頭で礼を言いに来たんだ。」
 毒舌でも吐かなければ、腹の虫がおさまらなかったのだ。ほんとうは、なにかしら悲しく苦しかった。
 俺も岩木も、ちと気持ちが乱され、そして酒を飲んだ。酔いが廻るにつれて、娘のことなど忘れてしまった。それからまた、いろいろなことを話し、いろいろなことを論じた。夜になって、岩木は俺を駅まで見送ってくれた。こんどは東京で逢おうと約束した。人生はつまらんものだと二人は同意した。汽車が動きだすとすぐ、岩木は歩み去ってゆく。俺は空席を見つけて、そこに深々と腰をおろし煙草を吸った。ポケットの中には、紙にくるんだヘヤーピンがあった。ああそのヘヤーピン一本、顔
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