側の室は、入口の襖が半分ばかり開け放しになっていて、奥の方に、四五人の男女の話し声がしていた。その中から、突然、女の声が響いてきた。
「これでどう? あげるから、使いなさいよ。」
 顔も姿も見せず、手先だけが襖のかげから出て、一本のヘヤーピンを差出している。
「や。どうも、ありがとう。」
 礼を言ったのは俺で、女中がヘヤーピンを黙って受取り、針金を二つに折り曲げたようなそれを、まっすぐ一本に延ばしてくれた。
「貰っておきますよ。」と俺は言った。
 室の中からは何の返事もなく、奥の方に話し声があるきりだった。
 俺は自分の室に戻り、パイプを通して、煙草をふかした。そしてヘヤーピンは、紙にくるんで、胴衣のポケットにしまった。
 ただそれだけのことで、俺は別に気に留めはしなかったのだが……。
 あとがいけない。
 そもそも、俺が旅行の途次、山陽線のO駅に急行列車からわざわざ降りたのは、岩木周作を訪問するためだった。彼とはもう十年ほど逢わないが、時折交わす書信の調子は昔通りだ。俺は旅先から、ちょっと立ち寄るかも知れないとだけ知らせておいた。はっきりした予定がつかなかったのだ。
 列車の都合で、
前へ 次へ
全18ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング