ヘヤーピン一本
豊島与志雄
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一本のヘヤーピン、ではない、ただヘヤーピン一本、そのことだけがすっきりと、俺の心に残ったのは、何故であろうか。そのことだけが純粋で、他はみな猥雑なのであろうか。
パイプが煙脂でつまっていた。廊下に出てみると、女中が通りかかった。それを呼びとめて、パイプを振ってみせた。
「これが、つまっちゃったんだ。なにか、通すものはないかね。針金かなにか、なんでもいいんだが。」
女中はちょっと足をとめたが、パイプの方はろくに見ようともしない。
「針金………そんなもの、ないねえ。」
「針金でなくてもいいんだが……。困ったなあ。」
実は、パイプがつまったといっても、シガレット用のものだから、パイプなしでじかに吸えば宜しく、さして困ったわけでもない。それでも、女中に軽くあしらわれて、俺はちょっとまごついた風だった。
その時、廊下の向う側の室は、入口の襖が半分ばかり開け放しになっていて、奥の方に、四五人の男女の話し声がしていた。その中から、突然、女の声が響いてきた。
「これでどう? あげるから、使いなさいよ。」
顔も姿も見せず、手先だけが襖のかげから出て、一本のヘヤーピンを差出している。
「や。どうも、ありがとう。」
礼を言ったのは俺で、女中がヘヤーピンを黙って受取り、針金を二つに折り曲げたようなそれを、まっすぐ一本に延ばしてくれた。
「貰っておきますよ。」と俺は言った。
室の中からは何の返事もなく、奥の方に話し声があるきりだった。
俺は自分の室に戻り、パイプを通して、煙草をふかした。そしてヘヤーピンは、紙にくるんで、胴衣のポケットにしまった。
ただそれだけのことで、俺は別に気に留めはしなかったのだが……。
あとがいけない。
そもそも、俺が旅行の途次、山陽線のO駅に急行列車からわざわざ降りたのは、岩木周作を訪問するためだった。彼とはもう十年ほど逢わないが、時折交わす書信の調子は昔通りだ。俺は旅先から、ちょっと立ち寄るかも知れないとだけ知らせておいた。はっきりした予定がつかなかったのだ。
列車の都合で、
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