ない日本語で言った。
「こんばん、あそびなさい。」
 最後の晩だから、うちの芸妓の一人と遊んでゆきなさい、わたしが許してあげる、そういう意味なのである。
 もし彼女に逢わなかったら、或いはそういうこともあり得たかも知れないが、彼女と知り合った以上、そんなことはばかばかしいのである。
 私は微笑して、頭を振った。
「こんど、また、寄りなさい。」
 旅行の途次、通りかかったら、寄っていきなさい、という意味なのである。
「それは、きっと寄る。」
 油を塗ったような感じのする彼女の手を、私は約束の意味で握りしめた。彼女は私に手を委ねたきり、指先には力をこめなかった。
 その代り、彼女は珍らしく酒を飲んだ。ふくらんだ上瞼と二筋の皺のある下瞼とを、ほんのりと赤らめて、黒々とした眼で私の方をじっと眺めた。その眼を見返すことがどうも私には出来にくかった。眼と眼を見合したら、こちらの心の底まで見透されそうな気がした。見透されたとて、別にわるい下心があるわけではなかったけれど、彼女によりかかり、彼女を愛欲からの護符みたいにしてる、その自分の弱みが、照れくさく思われるのであった。いっそ、彼女に飛びついて抱きしめてやったらと、衝動的な気持ちがちらと動きもしたが、それさえ気恥しくなってしまった。
 なんにも言うことはないのである。共通の話題とてもないのである。ただ彼女のそばで酒を飲んでおれば、それでもう充分なのだ。私は少し酒をすごした。そして酔っ払ってしまった。芸妓の一人が帰って来、私の相手をしてなにかと饒舌りだした時、私は面倒くさくなり、立ち上った。別れの言葉を阿媽さんになにか言ったか、どういう風に別れたか、それも殆んど覚えていない。ただ、も一度握手をしたらしい。油を塗ったような彼女の手の感触が、あとまで私の掌に残っていたのである。
 彼女にはそれきり逢わない。逢う機会もありそうにない。第一、彼女はあのままでいるのか、あれからどうしたのか、生死のほども分らないのだ。
 けれども、へんなところで、私は彼女に逢うことがある。
 先般、旅行中に、したたか酒に酔い、女たちとも戯れていた際、席にいた一人の女性に、私はピンカンウーリの阿媽さんを見た。年はずっと若く、容姿は可なり劣るが、全体の感じが彼女によく似ていた。私はそのひとを見ているうちに、心平らに気なごやかになって、まずい唄なんか口ずさみながら
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