、安らかな眠りにはいった。もしそのひとがいなかったらつまらない不行跡をしたかも知れない。この場合にも、彼女は私にとって、愛欲からの護符だった。
 それよりも、もっと不思議なことがある。
 或る深夜、私は酒に酔って、ふらふらと帰路についたが、自宅の近所になって、突然、方向が分らなくなってしまった。真直に行くのか、右へ曲るのか、左へ曲るのか、全然分らないのである。平素歩き馴れてる所だけれど、まるで狐にでも化かされたように、見当がつかないのだ。
 暫く立ち止り、いくら考えても分らないし、ただふらりと、路傍の草むらの中にはいって行ったものらしい。空襲の焼け跡の荒地で、背高く繁茂してる雑草が冬枯れになっている。その中に私は寝転んで、高声に何か歌いながら、空の星を眺めた。
 オリオン星座が中天近く輝いている。
 その美しい星座を見ていると、ふと、ピンカンウーリの阿媽さんを思い出した。ばかりでなく、彼女の姿がはっきりと空中に顕現したのである。それが宙に浮いて、私の方をじっと見ている。私は虚を衝かれた思いで、眼を醒した気持ちになり、立ち上って、家へ帰って行った。なんのことはない、道筋ははっきりしてるし、真直に家へ帰りついた。
 そういうわけで、今、ピンカンウーリの阿媽さんへ、私は感謝の気持ちもこめて、手紙を書こうと思うのだが、書くことはただ、鳥の声とか日の光りとか身辺の器具とか、意味のないつまらないものに就いてだけだ。然し、こういう埒もない手紙を書く相手を一人持ってることは、人生の幸福の一つだという感じが深い。
 手紙とは言うものの、相手の近況も分らないから、これは単に夢想の中のものであろうか。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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