ューメーンな芸術だとせらるることがある。然しそれは、評者の頭が或る意味で余りによすぎる結果である。魂の籠らない平面的な写真のうちから、深い意義と力と暗示とを汲み取るほどに想像が過敏なせいである。この場合、写真そのものは芸術品ではない。評者それ自身が写真を芸術品となす点に於て芸術家である。即ち評者は、余りに頭がよく或は余りに頭が悪いのである。
 眼に見えないものをも、写真の種板に写らないものをも、掴み出してくるのが芸術家の本当の仕事だ。掴み出してきた物を具体的な事象のうちに叩き込んで、「見せる」と共に「暗示する」のが、芸術家の本当の仕事だ。「見せる」ということは作品に確実性を与える。「暗示する」ということは作品に人を動かす力を与える。所謂ヒューメーンな作品は、この「見せる」ことだけをする作品である。固より「見せる」ことは芸術の第一歩である。然しそれはどこまでも第一歩に止まる。芸術の魂は寧ろ「暗示する」力に在る。所謂ヒューメーンな領域から先へ踏み出さなければいけない。そして芸術の魂を取り戻さなければいけない。魂のない芸術がいくら沢山あろうとも、それが真の意味で何の役に立とう。芸術家の野心は
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