ゆくということとは、理論的に押しつめれば同じでも、実際の相は異っている。生きるということのうちには、必然に或る働きが含まれてい、或る動きが籠っている。この働き――動きこそ、吾々が意を止めて眺めなければならない事柄である。そしてこの動きは、吾々の生活に於ては、何かを為すということになって現われる。
 バラックの諸君は、もし永久に衣食の配給を受くるとしたならば、稼ぐ必要がないからよいと云ってそれに甘んじ得られるであろうか。諸君は必ず否と答えるに違いない。そしてその答えは、他人の――国民の――国家の――世話になるのを潔しとしない、高邁な念からばかりでなしに、もっと深い而も直接の本能から出て来るに違いない。生きることは、何かを為すことだ、何等かの仕事をすることだ、という生活本能から、それは出て来るに違いない。
 刑務所に幽閉されてる囚人の告白を、私は間接に聞いたことがある。囚人等にとっては、日々与えられる仕事が、如何に有難いものとなってるかは、常人の想像も及ばないほどである。瞑想や夢想――それも人間の一の仕事である――の能力を持っていない囚人は、もし毎日何等の仕事も与えられずに、一人放置せられる時には、殊に独房に入れられてる場合には、到底生きてゆくに堪えられないそうである。それは吾々にもほぼ想像はつく。
 バラックの諸君よ、たとえ預金があり而も食物の配給を受くるにしても、諸君は何かの仕事をせずにはいられないだろう。焼跡の灰掻きでも何でもよい、また儲けは皆無でも構わない、ただ何かを為さずにはいられないだろう。終日手を拱いてぼんやりしていることは、諸君にとって最も苦しいに違いない。吾々は生きたいのだ、生活したいのだ。
 そして生きること――生活することは、何かを為す働きに外ならないのだ。
 このことを、諸君は平素の生活に於て、本当によく感じたであろうか。平素の生活に於ては、生活そのものを吾々の眼から遮るものが、余りに多くありすぎる。いろんな欲望の対象となるものが多々あって、吾々の眼はその方へばかり惹かれがちで、生活そのものを顧みる余裕が余りに少い。然るに今バラックの中に住んで、自分の生活をつくづく見つめる機会を得た諸君は、何かを為すということが如何なるものであるかを、本当によく知ったであろう。
 食物を得なければ命が保てない、というのは根本の原則である。そしてこの原則によりよく合った仕事は、人に力強さと輝きとをよりよく与える。この意味で、自覚的な農業は比較的よい仕事かも知れない。然しながら、人は必ずしも、食を得んがためにのみ働くものではない。生きること生活すること、それ自身が一の働きの上に立つものである。そこに人間の生活の力と光とがある。
 バラックの諸君よ、仕事というものを本当によく感じ味い考え給え。
 さて改めて、バラックに住む人々よ、諸君がバラックの困難な生活に於て、自分の家庭と仕事という二つを、しみじみと眼に止めたならば、諸君の生活は必ずや新らしい光に輝らされるに違いない。そして諸君の生は、強固な基礎の上に力強く築かれるに違いない。それは尊い経験である。日常生活では容易に得難い体験である。この経験を諸君がいつまでも忘れないようにと、私は切に祈りたい。諸君がそれをしかと胸に抱いてる間は、諸君の生活は常に――たとえ困苦の中にあっても――輝かしいものであるだろう。
 とは云え、バラックの生活が如何に悲惨であるかは、私にもほぼ想像はつく。殊には向寒の砌り、薄っぺらな屋根と四壁と低い床との中の寒気、昼の日当りと夜の点灯との不完全、仮りの住居という意識から来る不安、調度の不備と衛生法の困難、慰安や休息の欠乏、其他万事局限せられた不如意、それらのことから、諸君の生活に如何に陰欝な影がさしてくるかは、想像にも余りあるほどであろう。とりわけ自分一個のバラックでなしに、市設の長屋式バラックの或るものに於ては、隣家との仕切の板壁もなく、張られた縄一筋を境界とするそうである。そういう中に暮すことは、非常な困難に相違ない。貧しさに堪え得る者も、惨めさにはなかなか堪え難い。
 けれど、それも一時のことである。胎を据えて生活の根を下してる者にとっては、一時の悲惨は却って、未来に対する希望をより強く燃え立たしむるものであり、未来の光景をより輝かしくなすものである。未来が塞がれていない限りは、どんなことにも圧倒されないのが人間の本性である。そして諸君の未来は、決して塞がれてはいない。家庭と仕事という二つを本当に噛みしめた諸君の未来は、常にも増して広々としてる筈である。そして諸君が健かに生きてゆく以上は、未来の復興は案外早く来るであろう。
 ただ私が恐るるのは、諸君の肉体的健康である。前述の私の言に大過がないとするならば、私は諸君の精神的健康を信ずることが出来る。け
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