トフはいつも夜《よる》よく眠れないで、夜の間に昼間《ひるま》の出来事《できごと》を思いかえしてみる癖《くせ》があって、そんな時に、小父《おじ》はたいへん親切《しんせつ》な人だと考え、その憐《あわ》れな人に対する感謝《かんしゃ》の気持《きもち》がこみ上げて来《く》るのだった。しかし昼《ひる》になると、また彼をばかにすることばかり考えて、感謝《かんしゃ》の様子などは少《すこ》しも見せなかった。その上、クリストフはまだ小《ちい》さかったので、善良《ぜんりょう》であるということの価値《かち》が十分にわからなかった。子供《こども》の頭《あたま》には、善良と馬鹿とは、だいたい同じ意味《いみ》の言葉と思《おも》われるものである。小父《おじ》のゴットフリートは、その生《い》きた証拠《しょうこ》のようだった。
 ある晩《ばん》、クリストフの父が夕食をたべに町に出《で》かけた時、ゴットフリートは下の広間《ひろま》に一人残っていたが、ルイザが二人《ふたり》の子供《こども》をねかしている間《あいだ》に、外に出《で》てゆき、少し先の河岸《かし》にいって坐《すわ》った。クリストフはほかにすることもなかったので、あとからついていった。そしていつもの通り、子犬《こいぬ》のようにじゃれついていじめた揚句《あげく》、とうとう息《いき》を切《き》らして、小父《おじ》の足もとの草《くさ》の上にねころんだ。腹《はら》ばいになって芝生《しばふ》に顔をうずめた。息切れがとまると、また何《なに》か悪口《わるくち》をいってやろうと考えた。そして悪口が見つかったので、やはり顔を地面《じべた》に埋《うず》めたまま、笑《わら》いこけながら大声《おおごえ》でそれをいってやった。けれど何《なん》の返事もなかった。それでびっくりして顔《かお》を上《あ》げ、もう一|度《ど》そのおかしな常談《じょうだん》をいってやろうとした。すると、ゴットフリートの顔《かお》が目の前にあった。その顔は、金色《こんじき》の靄《もや》のなかに沈《しず》んでゆく夕日《ゆうひ》の残りの光《ひかり》に照らされていた。クリストフの言葉は喉《のど》もとにつかえた。ゴットフリートは目を半《なか》ばとじ、口を少しあけて、ぼんやり微笑《ほほえ》んでいた。そのなやましげな顔には、何《なん》ともいえぬ誠実《せいじつ》さが見えていた。クリストフは頬杖《ほおづえ》をついて、彼を見守《みまも》りはじめた。もう夜《よる》になりかかっていた。ゴットフリートの顔《かお》は少しずつ消《き》えていった。あたりはひっそりとしていた。ゴットフリートの顔にうかんでる神秘的《しんぴてき》な感じに、クリストフも引きこまれていった。地面《じめん》は影《かげ》におおわれており、空《そら》はあかるかった。星《ほし》がきらめきだしていた。河の小波《さざなみ》が岸《きし》にひたひた音をたてていた。クリストフは気《き》がぼうとして来《き》た。目にも見ないで、草の小さな茎《くき》をかみきっていた。蟋蟀《こおろぎ》が一|匹《ぴき》そばで鳴いていた。彼《かれ》は眠《ねむ》りかけてるような気持《きもち》だった。
 と突然《とつぜん》、暗《くら》いなかで、ゴットフリートが歌《うた》いだした。胸《むね》の中で響《ひび》くようなおぼろな弱《よわ》い声《こえ》だった。少しはなれてたら、聞《き》きとれなかったかも知れない。しかしその声には、人の心を打《う》つ誠《まこと》がこもっていた。声に出《だ》して考《かんが》えているのかと思えるほどだった。ちょうど透《す》きとおった水を通《とお》して見るように、その音楽《おんがく》を通《とお》して彼の心の奥底《おくそこ》までも読《よ》みとられそうだった。クリストフはこれまで、そんな風《ふう》な歌い方《かた》をきいたことがなかった。またそんな歌《うた》を聞《き》いたこともなかった。ゆるやかな単純《たんじゅん》な幼稚《ようち》な歌で、重々しい寂《さび》しげな、そして少し単調《たんちょう》な足どりで、決して急《いそ》がずに進んでゆく――時々長い間やすんで――それからまた行方《ゆくえ》もかまわず進み出《だ》し、夜のうちに消《き》えていった。ごく遠いところからやって来《く》るようでもあるし、どこへ行《ゆ》くのかわからなくもあった。朗《ほがら》かではあるが、なやましいものがこもっていた。表面《うわべ》は平和だったが、下には長い年月《としつき》のなやみがひそんでいた。クリストフはもう息《いき》もつかず、身体《からだ》を動かすことも出来《でき》ないで、感動のあまり冷《つめ》たくなっていた。歌が終わると、彼はゴットフリートの方《ほう》へはい寄《よ》った。そして喉《のど》をつまらした声でいいかけた。
「小父《おじ》さん!……」
 ゴットフリートは返事《へんじ》をしなかった。
「小父《おじ》さん!」とクリストフはくりかえして、両手と顎《あご》を彼の膝《ひざ》にのせた。
 ゴットフリートはやさしい声でいった。
「何《なん》だい……」
「それ何《なん》なの、小父《おじ》さん。教《おし》えてよ。小父さんが歌ったのなあに?」
「知らないね。」
「何《なん》だか教えとくれよ。」
「知らないよ。歌だよ。」
「小父《おじ》さんの歌かい。」
「おれのなもんか、ばかな……古い歌だよ。」
「誰《だれ》がつくったの?」
「わからないね。」
「いつ出来たの?」
「わからないね。」
「小父《おじ》さんの小さい時分《じぶん》にかい?」
「おれが生《う》まれる前《まえ》だ。おれのお父《とう》さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのそのまたお父さんが生まれる前だ……。この歌《うた》はいつでもあったんだよ。」
「変《へん》だね! 誰《だれ》にもそんなこと聞いたことがないよ。」
 彼《かれ》はちょっと考えた。
「小父《おじ》さん、まだほかのを知ってる?」
「ああ。」
「もう一つ歌って。」
「なぜもう一つ歌うんだい? 一つで沢山《たくさん》だよ。歌いたい時に、歌わなくちゃならない時に、歌うものなんだ。面白半分《おもしろはんぶん》に歌っちゃいけない。」
「でも、音楽《おんがく》をつくる時はどうなの?」
「これは音楽じゃないよ。」
 子供《こども》は考えこんだ。よくわからなかった。けれど説明《せつめい》してもらわなくてもよかった。なるほど、それは音楽《おんがく》ではなかった。普通《ふつう》の歌みたいに音楽ではなかった。彼はいった。
「小父《おじ》さん、小父さんはつくったことある?」
「何をさ。」
「歌を。」
「歌? どうして歌をつくるのさ。歌はつくるものじゃないよ。」
 子供《こども》はいつもの論法《ろんぽう》でいいはった。
「でも、小父《おじ》さん、一|度《ど》は誰《だれ》かがつくったにちがいないよ。」
 ゴットフリートは頑《がん》として頭を振《ふ》った。
「いつでもあったんだ。」
 子供はいい進《すす》んだ。
「だって、小父《おじ》さん、ほかの歌を、新しい歌を、つくることは出来《でき》るんじゃないか。」
「なぜつくるんだ。もうどんなのでもあるんだ。悲《かな》しい時のもあれば、嬉《うれ》しい時のもある。疲《つか》れた時のもあれば、遠い家《いえ》のことを思う時のもある。自分がいやしい罪人《つみびと》だったからといって、まるで虫《むし》けら[#「けら」に傍点]みたいなものだったからといって、自分《じぶん》の身がつくづくいやになった時のもある。ほかの人が親切《しんせつ》にしてくれなかったからといって、泣《な》きたくなった時のもある。天気がよくて、いつも親切に笑《わら》いかけて下さる神様《かみさま》のような大空《おおぞら》が見えるからといって、楽しくなった時のもある。……どんなのでも、どんなのでもあるんだよ。何《なん》でほかのをつくる必要《ひつよう》があるものか。」
「偉《えら》い人になるためにさ……」と子供《こども》はいった。彼の頭は、祖父《そふ》の教《おしえ》と子供らしい夢《ゆめ》とで一ぱいになっていた。
 ゴットフリートは穏《おだや》かに笑《わら》った。クリストフは少しむっ[#「むっ」に傍点]として尋《たず》ねた。
「なぜ笑《わら》うんだい!」
 ゴットフリートはいった。
「ああ、おれは、おれはつまらない人間さ。」
 そして子供《こども》の頭をやさしく撫《な》でながらきいた。
「お前は、偉《えら》い人になりたいんだね?」
「そうだよ。」とクリストフは得意《とくい》げに答えた。
 彼はゴットフリートがほめてくれるだろうと思っていた。しかしゴットフリートはきき返した。
「何《なん》のためにだい?」
 クリストフはまごついた。そして、ちょっと考《かんが》えてからいった。
「立派《りっぱ》な歌をつくるためだよ。」
 ゴットフリートはまた笑《わら》った。そしていった。
「偉《えら》い人になるために歌《うた》をつくりたいんだね。そして、歌をつくるために偉い人になりたいんだね。それじゃあ、尻尾《しっぽ》を追《お》っかけてぐるぐるまわってる犬《いぬ》みたいだ。」
 クリストフはひどく気《き》にさわった。ほかの時だったら、いつもばかにしている小父《おじ》からあべこべにばかにされるなんて、我慢《がまん》が出来なかったかもしれない。それにまた理窟《りくつ》で自分をやりこめるほどゴットフリートが利口《りこう》だなどとは、思いもよらないことだった。彼《かれ》はやり返してやる議論《ぎろん》か悪口《あっこう》を考えたが、思いあたらなかった。ゴットフリートは続《つづ》けていった。
「もしお前が、ここからコブレンツまであるほど大きな人物《じんぶつ》になったところで、たった一つの歌もつくれやすまい。」
 クリストフはむっ[#「むっ」に傍点]とした。
「つくろうと思《おも》っても……」
「思《おも》えば思うほど出来《でき》なくなるんだ。歌をつくるには、あの通りでなくちゃいけない。おききよ……」
 月は野の向こうに昇《のぼ》って、まるく輝《かがや》いていた。銀色《ぎんいろ》の靄《もや》が、地面《じめん》とすれすれに、また鏡《かがみ》のような水面《すいめん》に漂《ただよ》っていた。蛙《かえる》が語りあっていた。牧場《まきば》の中には、美しい調子《ちょうし》の笛《ふえ》のような蟇《がま》のなく声が聞えていた。蟋蟀《こおろぎ》の鋭《するど》い顫《ふる》え声は、星のきらめきに答《こた》えてるかのようだった。風《かぜ》は静《しず》かに榛《はん》の枝《えだ》をそよがしていた。河の向こうの丘からは、鶯《うぐいす》のか弱い歌がひびいてきた。
「いったいどんなものを歌う必要《ひつよう》があるのか?」ゴットフリートは長い間|黙《だま》っていてから、ほっと息《いき》をしていった。――(自分《じぶん》に向かっていっているのか、クリストフに向かっていっているのか、よくわからなかった。)――「お前《まえ》がどんな歌《うた》をつくろうと、ああいうものの方《ほう》が一そう立派《りっぱ》に歌っているじゃないか。」
 クリストフはこれまで何度《なんど》も、それらの夜《よる》の声を聞いていた。しかしまだこんな風《ふう》に聞いたことはなかった。本当《ほんとう》だ、どんなものを歌う必要《ひつよう》があるか?……彼はやさしさと悲《かな》しみで胸《むね》が一ぱいになるのを感《かん》じた。牧場《まきば》を、河を、空を、なつかしい星《ほし》を、胸《むね》に抱《だ》きしめたかった。そして小父《おじ》のゴットフリートに対《たい》して、しみじみと愛情《あいじょう》を覚《おぼ》えた。もう今は、すべての人のうちで、ゴットフリートがいちばんよく、いちばん賢《かしこ》く、いちばん立派《りっぱ》に思われた。彼は小父《おじ》をどんなに見違《みちが》えていたことかと考えた。自分《じぶん》から見違えられていたために、小父は悲《かな》しんでいるのだと考えた。彼は後悔《こうかい》の念《ねん》にうたれた。こう叫《さけ》びたい気がした。「小父さん、もう悲しまないでね。もう意地悪《い
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