じわる》はしないよ。許《ゆる》しておくれよ。僕は小父《おじ》さんが大好きだ!」しかし彼《かれ》はいえなかった。――そしていきなり小父《おじ》の腕《うで》の中にとびこんだ。言葉は出《で》なかった。彼はただくり返《かえ》した。「僕《ぼく》は小父《おじ》さんが好《す》きだ!」そして心をこめて抱《だ》きついた。ゴットフリートはびっくりし、感動《かんどう》して、「何《なん》だ、何だ?」とくり返《かえ》しながら、同《おな》じように彼を抱《だ》きしめた。――それから彼《かれ》は立上《たちあが》り、子供《こども》の手をとっていった。「もう家《うち》へかえろう。」クリストフは自分《じぶん》の気持《きもち》が小父《おじ》にはわからなかったのではないかしらと、また悲《かな》しい気持になった。しかし家《うち》のところまで来《く》ると、小父はいった。「また晩《ばん》に、お前さえよかったら、一しょに神様《かみさま》の音楽《おんがく》をききに行こう。もっとほかの歌《うた》も歌ってあげよう。」そしてクリストフは、感謝《かんしゃ》の気持《きもち》で一ぱいになって、おやすみの挨拶《あいさつ》をしながら、抱《だ》きついた時、小父がよくわかってくれたのを見てとった。
 それ以来《いらい》、二人《ふたり》は夕方《ゆうがた》、しばしば一しょに散歩《さんぽ》に出《で》かけた。黙《だま》って歩いて、河に沿《そ》っていったり、野を横切《よこぎ》ったりした。ゴットフリートはゆっくり煙草《たばこ》をすい、クリストフは夕闇《ゆうやみ》が怖《こわ》くて、小父《おじ》に手をひかれていた。彼等《かれら》はよく草の上に坐《すわ》った。ゴットフリートはしばらく黙《だま》ってたあとで、星《ほし》や雲《くも》の話《はなし》をしてくれた。土《つち》や空気《くうき》や水のいぶき、または闇《やみ》の中にうごめいてる、飛《と》んだりはったり泳《およ》いだりしている小《ちい》さな生物《いきもの》の、歌や叫《さけ》びや音、または晴天《せいてん》や雨の前兆《ぜんちょう》、または夜《よる》の交響曲《シンフォニー》の数《かぞ》えきれないほどの楽器《がっき》など、それらのものを一々聞きわけることを教えてくれた。時とすると、歌《うた》もうたってくれた。悲《かな》しい節《ふし》の時も楽しい節の時もあったが、しかしいつも同《おな》じような種類《しゅるい》のものだった。そしてクリストフはいつも同じ切《せつ》なさを感《かん》じた。ゴットフリートは一|晩《ばん》に一つきり歌わなかった。頼《たの》んでも気持《きもち》よく歌ってはくれないことを、クリストフは知っていた。歌いたい時に自然《しぜん》に出《で》てくるのでなくてはだめだった。長い間|待《ま》っていなければならないことが多かった。※[#始め二重括弧、1−2−54]もう今夜《こんや》は歌わないんだな……※[#終わり二重括弧、1−2−55]とクリストフが思ってる頃《ころ》、やっと小父は歌い出《だ》すのだった。
 ある晩《ばん》、ゴットフリートがどうしても歌ってくれそうもなかった時《とき》、クリストフは自分《じぶん》が作《つく》った小曲《しょうきょく》を一つ彼《かれ》に聞かしてやろうと思いついた。それは作《つく》るのに大へん骨《ほね》が折れたし、得意《とくい》なものであった。自分がどんなに芸術家《げいじゅつか》であるか見せてやりたかった。ゴットフリートは静《しず》かに耳《みみ》を傾《かたむ》けた。それからいった。
「実《じつ》にまずいね、気《き》の毒《どく》だが。」
 クリストフは面目《めんぼく》を失《うしな》って、答える言葉《ことば》もなかった。ゴットフリートは憐《あわ》れむようにいった。
「どうしてそんなものを作《つく》ったんだい。どうにもまずい。誰《だれ》もそんなものを作れとはいわなかったろうにね。」
 クリストフは怒《おこ》って赤くなり、いいさからった。
「お祖父《じい》さんは僕の音楽《おんがく》をたいへんいいといってるよ。」と彼は叫《さけ》んだ。
「そう!」とゴットフリートは平気《へいき》でいった。「お祖父《じい》さんのいうことが本当《ほんとう》なんだろう。あの人はたいへん学者《がくしゃ》だ。音楽のことは何《なん》でも知っている。ところがおれは、音楽のことはあまり知らないんだ。」
 そして少し間《ま》をおいていった。
「だが、おれは、たいへんまずいと思うよ。」
 彼《かれ》はおだやかにクリストフを眺《なが》め、その不機嫌《ふきげん》な顔を見て、微笑《ほほえ》んでいった。
「何《なに》かほかに作《つく》ったのがあるかい? 今のより外《ほか》のものの方が、おれの気《き》にいるかも知れない。」
 クリストフはほかの歌《うた》が小父《おじ》の感じをかえてくれるかも知れないと思って、あるだけ歌った。ゴットフリートは何《なん》ともいわなかった。彼はおしまいになるのを待《ま》っていた。それから頭を振《ふ》って、ふかい自信《じしん》のある調子《ちょうし》でいった。
「なおまずい。」
 クリストフは唇《くちびる》をかみしめた。顎《あご》がふるえていた。彼《かれ》は泣《な》きたかった。ゴットフリートは自分でもまごついてるようにいいはった。
「実《じつ》にまずい。」
 クリストフは涙声《なみだごえ》で叫《さけ》んだ。
「では、どうしてまずいというんだい?」
 ゴットフリートはあからさまの眼《め》つきで彼を眺《なが》めた。
「どうしてって……おれにはわからない……お待《ま》ちよ……じっさいまずい……第一、ばかげているから……そうだ、その通《とお》りだ……ばかげている、何《なん》の意味《いみ》もない……そこだ。それを書いた時、お前は何《なに》も書《か》きたいことがなかったんだ。なぜそんなものを書いたんだい?」
「知《し》らないよ。」とクリストフは悲《かな》しい声でいった。「ただ美《うつく》しい曲《きょく》を作りたかったんだよ。」
「それだ。お前は書《か》くために書いたんだ。偉《えら》い音楽家《おんがくか》になりたくて、人にほめられたくて、書いたんだ。お前は高慢《こうまん》だった、お前は嘘《うそ》つきだった、それで罰《ばつ》をうけた……そこだ。音楽では、高慢《こうまん》になって嘘《うそ》をつけば、きっと罰《ばち》があたる。音楽は謙遜《けんそん》で誠実《せいじつ》でなくてはならない。そうでなかったら、音楽《おんがく》というのは何《なん》だ? 神様に対する不信《ふしん》だ、神様をけがすことだ、正直《しょうじき》な真実《しんじつ》なことを語《かた》るために、われわれに美しい歌を下さった神様をね。」
 彼はクリストフが悲《かな》しがってるのに気がついて、抱《だ》いてやろうとした。しかしクリストフは怒《おこ》って横を向いた。そして彼は幾日《いくにち》も不機嫌《ふきげん》だった。小父《おじ》を憎《にく》んでいた。――けれども、「あいつはばかだ、なんにも知るもんか! ずっと賢《かしこ》いお祖父《じい》さんが、僕の音楽をすてきだといってくれてるんだ。」といくら自分でくり返《かえ》してみてもだめだった。心の底《そこ》では、小父の方《ほう》が正《ただ》しいとわかっていた。ゴットフリートの言葉が胸《むね》の奥《おく》に刻《きざ》みこまれていた。彼は嘘《うそ》をついたのがはずかしかった。
 それで、彼はしつっこく怨《うら》んではいたものの、作曲《さっきょく》をする時には、今ではいつもゴットフリートのことを考《かんが》えていた。そしてしばしば、ゴットフリートがどう思《おも》うだろうかと考えると、はずかしくなって、書《か》いたものを破《やぶ》いてしまうこともあった。そういう気持《きもち》をおしきって、全く誠実《せいじつ》でないとわかっている曲《きょく》を書くような時には、気《き》をつけてかくしておいた。どう思われるだろうかとびくびくしていた。そしてゴットフリートが、「そんなにまずくはない……気《き》にいった……」とただそれだけでもいってくれると、嬉《うれ》しくてたまらなかった。
 また、時には意趣《いしゅ》がえしに、偉《えら》い音楽家の曲《きょく》を自分のだと嘘《うそ》をいって、たちのわるい悪戯《いたずら》をすることもあった。そして小父《おじ》がたまたまそれをけなしたりすると、彼はこおどりして喜《よろこ》んだ。しかし小父《おじ》はまごつかなかった。クリストフが手《て》をたたいて、喜《よろこ》んでまわりをはねまわるのを見《み》ながら、人がよさそうに笑っていた。そしていつもの意見《いけん》をもち出《だ》した。「うまくは書いてあるかも知れないが、何《なん》の意味《いみ》もない。」――彼はいつも、クリストフの家で催《もよ》おされる小演奏会《しょうえんそうかい》に出席《しゅっせき》したがらなかった。その時の音楽《おんがく》がどんなに立派《りっぱ》なものであっても、彼は欠伸《あくび》をしだし、退屈《たいくつ》でぼんやりしてる様子《ようす》だった。やがて辛抱《しんぼう》出来なくなり、こっそり逃《に》げ出《だ》してしまうのだった。彼はいつもいっていた。
「ねえ、坊《ぼう》や、お前が家《いえ》の中で書くものは、どれもこれも音楽《おんがく》じゃないよ。家の中の音楽は、部屋《へや》の中の太陽《たいよう》と同じだ。音楽は家《いえ》の外《そと》にあるものなんだ、外で神様のさわやかな空気《くうき》を吸《す》う時《とき》なんかに……。」

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  あとがき
 クリストフはその後《ご》、偉《えら》い音楽家《おんがくか》になりました。彼《かれ》の音楽《おんがく》はいつも、彼《かれ》の思想《しそう》や感情《かんじょう》をありのままに表現《ひょうげん》したもので、彼《かれ》の心《こころ》とじかにつながってるものでありました。そして彼《かれ》がえらい音楽家《おんがくか》になったのは、ゆたかな天分《てんぶん》と苦《くる》しい努力《どりょく》とによるのですが、また幼《おさな》い時《とき》にゴットフリートから受《う》けた教訓《きょうくん》は、ふかく心《こころ》にきざみこまれていて、たいへん彼《かれ》のためになりました。
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底本:「日本少国民文庫 世界名作選(一)」新潮社
   1998(平成10)年12月20日発行
底本の親本:「世界名作選(一)」日本少國民文庫、新潮社
   1936(昭和11)年2月8日
入力:川山隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年1月15日作成
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