の広範な散文詩に着手せしめ、それを最後までやりとげさしたところの、母線的観念の幾つかを、ここに披瀝《ひれき》してみたい。この散文詩は、実際的障害を少しも考慮せずして書かれたものであり、フランスの文学界に認められてるあらゆる慣例を断然破棄したものである。成功などは私にとってどうでもよいことだった。成功などは問題ではなかった。内心の命令に従うことが問題であった。
長い物語の中途に、ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]のための自分のノートの中に、私は一九〇八年十二月のつぎの文句を見出す。
「私は文学の作品を書くのではない。信仰の作品を書くのである。」
人は信ずる場合には、結果を懸念せずに行動する。勝利か敗北かは問うところでない。「なすべきことをなせ!」
私がジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の中で負担した義務は、フランスにおける道徳的および社会的崩壊の時期にあって、灰の下に眠ってる魂の火を覚醒させることであった。そしてそのためにはまず、積もり重なってる灰と塵芥《じんかい》とを清掃することだった。空気と日光とを壟断《ろうだん》してる広場の市[#「広場の市」に傍点]に、あらゆる犠牲を覚悟しあらゆる汚行をしりぞける勇敢な魂の小団を、対立させることだった。私はそれらの魂を、彼らの主長となるべき一英雄の指呼のままにその周囲に集めたかった。そしてその主長を得るためには、それを創造しなければならなかった。
私はその主長について二つの肝心な条件を要求した。
一――自由な明晰《めいせき》な真摯《しんし》な眼、ヴォルテールや百科全書派《アンシクロペジスト》らが、当時の社会の滑稽《こっけい》と罪悪とを素朴《そぼく》な視力によって諷刺《ふうし》させんがために、パリーにやって来さした、あの自然人たち――あの「ヒューロン人」たち――のような眼。私は現今のヨーロッパを見てそして批判せんがために、そういう観測所――率直な両眼を必要とした。
二――見てそして批判することは、出発点にすぎない。そのつぎは行動である。何を考えようと、なんであろうと、あえてそうするのでなければいけない。――あえて言うべし。あえて行動すべし。十八世紀の「素朴人」をもってしても、嘲笑《ちょうしょう》するには足りる。しかし今日の力戦のためにはそれはあまりに虚弱である。英雄が必要である。英雄たれ!
ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の初めのほうと同じころに出たベートーヴェン[#「ベートーヴェン」に傍点]伝の緒言の中で、私は「英雄」の定義を与えておいた。私は英雄という呼称を、「思想あるいは力によって打ち勝った人々に拒む。ただ心情によって偉大だった人々だけを、私は英雄と呼ぶ。」「心情」という言葉の意味を布衍《ふえん》すれば、それは単に感性の範囲内に属するものではなくて、内部生活の広大な領域を意味するのである。その領域を支配してその根原的な諸力に拠《よ》って立つ英雄こそ、敵の世界に対抗し得るのである。
自分の英雄について私がいだいた最初の考えの中では、ベートーヴェンが自然にそのモデルとして浮かんできた。なぜなら、近代の社会では、そして西欧の諸民族の中では、ベートーヴェンこそは、広大な内心の領土の主君たる創造的能力に、万人の同胞たる心情の能力を結合せしめた、異例な芸術家の一人であるから。
しかしながら、ジャン・クリストフのうちにベートーヴェンの肖像を認めることは、差し控えてもらいたい。クリストフはベートーヴェンではない。彼は一個の新しいベートーヴェンであり、ベートーヴェン型の英雄ではあるが、しかし自律的なものであり、異なった世界に、われわれ現代の世界に投げ出されたものである。ボンの音楽家との経歴の類似は、第一巻曙[#「曙」に傍点]の中のクリストフの家庭的特質にとどまる。私が作品の初めにそれらの類似を取り入れたのは、主人公のベートーヴェン的系統を肯定せんがためであり、西欧ライン地方の過去の中にその根を張らせんがためであった。私は彼の最初の幼年時代の日々を、古いドイツの――古いヨーロッパの――空気で包んだ。しかしその樹木が一度地上に伸び出せば、それを取り囲むものは現代である。そして彼自身も、徹頭徹尾われわれのうちの一人――西欧の一つの戦役から他の戦役へ、一八七〇年より一九一四年へ進む、その時代の勇壮な代表者である。
彼がそこで生長した世界は、その後に展開した恐るべき事変のために粉砕され混乱されたとは言え、柏《かしわ》の木クリストフはなおつっ立ってると充分に信ぜらるる。嵐《あらし》のために若干の枝は吹き折られたが、幹は揺るがなかった。世界の各地からそこに避難所を求めに来る小鳥によって、日ごとにそれが証明される。もっとも顕著な事柄は、そしてこの作品をこしらえるおりの私の期待をはるかに越ゆることであるが、ジャン・クリストフはもはやいずれの国においても他国人ではないということである。あらゆる遠隔地方から、あらゆる異民族から、シナから、日本から、インドから、アメリカ諸国から、ヨーロッパのあらゆる民衆から、多くの人々が私のもとへ言いに来た。「ジャン・クリストフは私たちのものだ。彼は私のものだ。彼は私の兄弟だ。彼は私だ……。」
そしてそのことは、私の信念の真実だったことを、私の努力が目的に達したことを、私に証明してくれた。というのは、創作の頭初において、私はこう書いておいた(一八九三年十月)。
「人類の一致、それがいかなる多様な形態のもとに現われようとも、常にそれを示すこと。それこそ、科学のそれと同様に芸術の第一の目標でなければならない。それがジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の目標である。」
ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]のために選まれた芸術的形式と文体とについて、多少の考慮を私は披瀝《ひれき》すべきであろう。なぜなら両者は、私がこの作品とその目標とについていだいていた意想に密接な関係を有するから。けれども私は、自分の美学的見解についての一般的論説の中で、いっそう長くそれを取り扱うつもりでいる。私の美学的見解は、現代フランス人の大多数のそれとはまったく異なる。
ただここでは、一言いっておけば足りるであろう。すなわち、ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の文体は(それによって私の作品の全体は誤った批判を受けがちであるが、)「カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ」叢書《そうしょ》刊行の初めのころ、私の全努力と戦友ペギーの全努力とを鼓舞してくれた主要観念によって、指導されたものである。その観念は、ゼラチン的な時代と環境とにたいする反動から、われわれが極端にそうであったとおりに、粗暴な雄々しいしかも清教徒的なもので、だいたいつぎのようなものであった。
「直截《ちょくせつ》に語れ。脂粉と嬌飾《きょうしょく》とをなくして語れ。理解されるように語れ。一群の精緻《せいち》な人々からではなく、多数の人々から、もっとも単純な人々から、もっとも微々たる人々から、理解されることだ。そしてあまりによく理解されることを、けっして恐るるな。影もなく覆面もなく、明瞭《めいりょう》に確実に、必要によっては重々しく、語れよ。そのためにいっそうしっかりと地面に接してさえおれば、その他はどうでもよろしい。そしてよりよく思想を打ち込むために、同じ語を繰り返すことが有効であるならば、繰り返し、打ち込み、他の語を捜すな。一語たりとも無駄《むだ》になすな。言葉は行動であらんことを!」
これは、現代の美学主義に対抗して、今日でもなお私が主張してる原則である。行動を欲し行動をになってるある種の作品に、私はそれをやはり適用する。しかしあらゆる作品にではない。真に読むことを知ってる者は、ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]と歓喜せる魂[#「歓喜せる魂」に傍点]との間の、職分や技術や調和や諧調《かいちょう》の本質的な差異を見てとるだろう。リリューリ[#「リリューリ」に傍点]やコラ[#「コラ」に傍点]・ブルーニョン[#「ブルーニョン」に傍点]のように、律動や音色や和音のまったく別な演技と結合とを要求する実質をもってる作品については、言うまでもないことである。
それになお、ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の中においてさえ、あらゆる巻が同じ厳密さで最初の要求に応じてはいない。初めの戦闘の清教主義は、かつて旅の終わり[#「旅の終わり」に傍点](女友達[#「女友達」に傍点]、燃ゆる荊[#「燃ゆる荊」に傍点]、新しき日[#「新しき日」に傍点])と題されていた第三部になると、ゆるんできている。主人公の上におりてきた年齢からくる和らぎをもってして、作品の音楽はいっそう複雑になり色合いに富んでいる。しかし頑固《がんこ》な意見はそれに注意を配らずに、全作品について、全|生涯《しょうがい》について、同じ一つの批判――あるいは黒のあるいは白の批判――で満足している。
私のノートの綴《と》じ込みの中に、ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の裏面を説明する豊富な記述が、やがては見出されることだろう。とくに、広場の市[#「広場の市」に傍点]および家の中[#「家の中」に傍点]に記載されてる現代社会に関する事柄について。しかしそのことを語るにはまだ時期が早い(六)。
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(六) このことについて私は、作中の人物と実在の人物とを同視しないように、読者に注意しておかなければならない。ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]はモデル小説ではない。しばしば現実の事件や個人を目がけてることはあっても、ただ一つの肖像をも――過去のも現在のも――含んではいない。しかしながら、記載されてるすべての人物はおのずから、創作の働きのなかで溶解され変形されたる、実人生の多くの経験や思い出によって養われている。したがって、現代の多数の著名な人々が、私の諷刺の中に自分の姿を認めるようなことになり、私にたいして深い憎悪をいだくようなことになった。その結果は、一九一四年戦役中、私の乱戦を超えて[#「乱戦を超えて」に傍点]の機会に、あるいはそれを口実に、現われたのだった。
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けれども、初めの計画に予定されながら実現されなかった一部分のことを述べるのは、おそらく興味あることかもしれない。それは女友達[#「女友達」に傍点]と燃ゆる荊[#「燃ゆる荊」に傍点]との間に置かれるはずだった一巻で、その主題は革命であった。
それはソヴィエット社会主義共和国連邦における現在の勝利ある革命ではない。あの当時(一九〇〇年より一九一四年の間)革命は打ち負かされていた。しかし今日の勝利者らをこしらえたものは昨日の敗者らである。
私のノートの中には、除去されたその一巻のかなりつき進んだ草案がある。そこには、フランスとドイツとから放逐されてロンドンに逃亡し、各国からの亡命者や被追放者の群れに立ち交じってるクリストフがいた。彼はそれらの首領らの一人と親交を結んだ。それはマッチニ(七)あるいはレーニンのような素質を有する精神的偉人であった。この強力な煽動《せんどう》者は、その知力と信念と性格とによって、ヨーロッパのあらゆる革命運動の指導的頭脳となっていた。そしてクリストフは、ドイツとポーランドとに突発したそれらの運動の一つに、積極的に参加したのである。それらの事変や暴動や戦闘や革命各派の記述は、この巻の大部分を占めていて、最後に革命は抑圧され、クリストフは逃亡して、幾多の危険の後に、スイスに落ちのびた。そこでは情熱が彼を待ち受けていて、そして燃ゆる荊[#「燃ゆる荊」に傍点]となるのである。
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(七) 私は当時マッチニ
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