彼はそこにいた。著者は彼の影と対語をするのである(四)。そして聖クリストフの顔が著者をながめてくれる。著者は聖クリストフの顔から眼を離さない……。

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いかなる日もクリストフの顔をながめよ、
その日汝は悪しき死を死せざるべし(五)。
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(二) ジャン・クリストフは最初、シャール・ペギー主宰のカイエ・ド・ラ・キャンゼーヌの十七冊となって、一九〇四年二月から一九一二年十月までに刊行され、つぎに、オランドルフ書店から十冊にして刊行された。前者の版にある或る数章はその後削除された。(ことに、反抗[#「反抗」に傍点]の中で、クリストフの青年時代のドイツの詩に関する小論。)
(三) 各巻の製作年月はつぎのとおりである。
     曙と朝[#「曙と朝」に傍点]、一九〇三年七月――十月。
     青年[#「青年」に傍点]、一九〇四年七月――十月。
     反抗[#「反抗」に傍点]、一九〇五年七月――一九〇六年春。
     アントアネット[#「アントアネット」に傍点]、一九〇六年八月――十月末。
     広場の市[#「広場の市」に傍点]、一九〇七年六月――八月末。
     家の中[#「家の中」に傍点]、一九〇七年八月未――一九〇八年九月。
     女友達[#「女友達」に傍点]、一九〇九年六月――九月初め。
     燃ゆる荊[#「燃ゆる荊」に傍点]、一九一〇年七月末――一九一一年七月。(ある重大事とトルストイ[#「トルストイ」に傍点]伝の執筆とのために中断。)
     新しき日[#「新しき日」に傍点]、一九一一年七月未――一九一二年六月。
(四) 広場の市[#「広場の市」に傍点]の巻頭には、「著者とその影との対話、」すなわちロマン・ローランとジャン・クリストフとの対話がある。しかし両者のいずれが「影」であるかは疑問のうちに(故意に)残されている。
(五) この銘は、中世の教会堂(そしてことにパリーのノートル・ダーム寺院)の脇間の入り口に、聖クリストフの像の台石に刻まれてるものであるが、著者によって象徴的に採用されて、カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌの原版の各冊の終わりにつけられていた。
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 パリーにおいて無関心なあるいは皮肉な沈黙にかこまれながら、私をしてこの広範な散文詩に着手せしめ、それを最後までやりとげさしたところの、母線的観念の幾つかを、ここに披瀝《ひれき》してみたい。この散文詩は、実際的障害を少しも考慮せずして書かれたものであり、フランスの文学界に認められてるあらゆる慣例を断然破棄したものである。成功などは私にとってどうでもよいことだった。成功などは問題ではなかった。内心の命令に従うことが問題であった。
 長い物語の中途に、ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]のための自分のノートの中に、私は一九〇八年十二月のつぎの文句を見出す。
「私は文学の作品を書くのではない。信仰の作品を書くのである。」
 人は信ずる場合には、結果を懸念せずに行動する。勝利か敗北かは問うところでない。「なすべきことをなせ!」
 私がジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の中で負担した義務は、フランスにおける道徳的および社会的崩壊の時期にあって、灰の下に眠ってる魂の火を覚醒させることであった。そしてそのためにはまず、積もり重なってる灰と塵芥《じんかい》とを清掃することだった。空気と日光とを壟断《ろうだん》してる広場の市[#「広場の市」に傍点]に、あらゆる犠牲を覚悟しあらゆる汚行をしりぞける勇敢な魂の小団を、対立させることだった。私はそれらの魂を、彼らの主長となるべき一英雄の指呼のままにその周囲に集めたかった。そしてその主長を得るためには、それを創造しなければならなかった。
 私はその主長について二つの肝心な条件を要求した。
 一――自由な明晰《めいせき》な真摯《しんし》な眼、ヴォルテールや百科全書派《アンシクロペジスト》らが、当時の社会の滑稽《こっけい》と罪悪とを素朴《そぼく》な視力によって諷刺《ふうし》させんがために、パリーにやって来さした、あの自然人たち――あの「ヒューロン人」たち――のような眼。私は現今のヨーロッパを見てそして批判せんがために、そういう観測所――率直な両眼を必要とした。
 二――見てそして批判することは、出発点にすぎない。そのつぎは行動である。何を考えようと、なんであろうと、あえてそうするのでなければいけない。――あえて言うべし。あえて行動すべし。十八世紀の「素朴人」をもってしても、嘲笑《ちょうしょう》するには足りる。しかし今日の力戦のためにはそれはあまりに虚弱で
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