ある。英雄が必要である。英雄たれ!
 ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の初めのほうと同じころに出たベートーヴェン[#「ベートーヴェン」に傍点]伝の緒言の中で、私は「英雄」の定義を与えておいた。私は英雄という呼称を、「思想あるいは力によって打ち勝った人々に拒む。ただ心情によって偉大だった人々だけを、私は英雄と呼ぶ。」「心情」という言葉の意味を布衍《ふえん》すれば、それは単に感性の範囲内に属するものではなくて、内部生活の広大な領域を意味するのである。その領域を支配してその根原的な諸力に拠《よ》って立つ英雄こそ、敵の世界に対抗し得るのである。
 自分の英雄について私がいだいた最初の考えの中では、ベートーヴェンが自然にそのモデルとして浮かんできた。なぜなら、近代の社会では、そして西欧の諸民族の中では、ベートーヴェンこそは、広大な内心の領土の主君たる創造的能力に、万人の同胞たる心情の能力を結合せしめた、異例な芸術家の一人であるから。
 しかしながら、ジャン・クリストフのうちにベートーヴェンの肖像を認めることは、差し控えてもらいたい。クリストフはベートーヴェンではない。彼は一個の新しいベートーヴェンであり、ベートーヴェン型の英雄ではあるが、しかし自律的なものであり、異なった世界に、われわれ現代の世界に投げ出されたものである。ボンの音楽家との経歴の類似は、第一巻曙[#「曙」に傍点]の中のクリストフの家庭的特質にとどまる。私が作品の初めにそれらの類似を取り入れたのは、主人公のベートーヴェン的系統を肯定せんがためであり、西欧ライン地方の過去の中にその根を張らせんがためであった。私は彼の最初の幼年時代の日々を、古いドイツの――古いヨーロッパの――空気で包んだ。しかしその樹木が一度地上に伸び出せば、それを取り囲むものは現代である。そして彼自身も、徹頭徹尾われわれのうちの一人――西欧の一つの戦役から他の戦役へ、一八七〇年より一九一四年へ進む、その時代の勇壮な代表者である。
 彼がそこで生長した世界は、その後に展開した恐るべき事変のために粉砕され混乱されたとは言え、柏《かしわ》の木クリストフはなおつっ立ってると充分に信ぜらるる。嵐《あらし》のために若干の枝は吹き折られたが、幹は揺るがなかった。世界の各地からそこに避難所を求めに来る小鳥によって、日ごとにそれが証明される。もっとも顕著な事柄は、そしてこの作品をこしらえるおりの私の期待をはるかに越ゆることであるが、ジャン・クリストフはもはやいずれの国においても他国人ではないということである。あらゆる遠隔地方から、あらゆる異民族から、シナから、日本から、インドから、アメリカ諸国から、ヨーロッパのあらゆる民衆から、多くの人々が私のもとへ言いに来た。「ジャン・クリストフは私たちのものだ。彼は私のものだ。彼は私の兄弟だ。彼は私だ……。」
 そしてそのことは、私の信念の真実だったことを、私の努力が目的に達したことを、私に証明してくれた。というのは、創作の頭初において、私はこう書いておいた(一八九三年十月)。
「人類の一致、それがいかなる多様な形態のもとに現われようとも、常にそれを示すこと。それこそ、科学のそれと同様に芸術の第一の目標でなければならない。それがジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の目標である。」
 ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]のために選まれた芸術的形式と文体とについて、多少の考慮を私は披瀝《ひれき》すべきであろう。なぜなら両者は、私がこの作品とその目標とについていだいていた意想に密接な関係を有するから。けれども私は、自分の美学的見解についての一般的論説の中で、いっそう長くそれを取り扱うつもりでいる。私の美学的見解は、現代フランス人の大多数のそれとはまったく異なる。
 ただここでは、一言いっておけば足りるであろう。すなわち、ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の文体は(それによって私の作品の全体は誤った批判を受けがちであるが、)「カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ」叢書《そうしょ》刊行の初めのころ、私の全努力と戦友ペギーの全努力とを鼓舞してくれた主要観念によって、指導されたものである。その観念は、ゼラチン的な時代と環境とにたいする反動から、われわれが極端にそうであったとおりに、粗暴な雄々しいしかも清教徒的なもので、だいたいつぎのようなものであった。
「直截《ちょくせつ》に語れ。脂粉と嬌飾《きょうしょく》とをなくして語れ。理解されるように語れ。一群の精緻《せいち》な人々からではなく、多数の人々から、もっとも単純な人々から、もっとも微々たる人々から、理解されることだ。そしてあまりによく
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