河流が出てきた豊饒《ほうじょう》な絶望を、感じてくれたのである。
山間の暴風雨の夜、電光のはためく下、雷鳴と風との荒々しい唸《うな》りの中で、私は考える、死せる人々のことを、死ぬべき人々のことを、また、空虚に包まれ、死滅の中に回転し、やがては死ぬべき、この地上全体のことを。そしてすべて命数限りあるものに、私はこの命数限りある書物をささげる。本書はこう言いたがっている。「同胞たちよ、たがいに近寄ろうではないか。われわれを隔ててるもののことを忘れようではないか。われわれをいっしょにしてる共通の悲惨のことだけを考えようではないか。敵もなく悪人もなく、ただ惨《みじ》めな人々があるばかりだ。そして永続し得る唯一の幸福は、たがいに理解しあい愛しあうこと――知力に愛――生の前と後との二つの深淵《しんえん》の間でわれわれの闇夜《やみよ》をてらしてくれる唯一の光明だ。」
すべて命数限りあるものに――すべてを平等ならしめ平和ならしむる死に――生の無数の小川が流れこむ未知の海に、私は自分の作品と自己とをささげる。
一九〇一年八月モルシャッハにて
いよいよこの作品の製作にとりかかるずっと前から、多くの主要な事件や人物は草案されていた。クリストフは一八九〇年以来、グラチアは一八九七年より、燃ゆる荊[#「燃ゆる荊」に傍点]のアンナの姿は全部一九〇二年に、オリヴィエとアントアネットは一九〇一年から一九〇二年に、クリストフの死は一九〇三年(曙[#「曙」に傍点]の最初のところが書かれる一か月前)。「今日、一九〇三年三月二十日、いよいよジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]を書き始める、」と私がしるしたときには、私は麦の穂束をこしらえるのに、穂をよりわけ締めつけるだけでよかったのである。
それゆえ、私が成り行きしだいに無計画にジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の中にふみこんだと想像する、浅見な批評家の説が、いかに不当なものであるかは明らかであろう。私は早くから、堅固な構成にたいする欲求と愛着とを、フランス流で古典的で師範学校的である教育から得てきたし、血液の中にもそれをもっていた。私はブルゴーニュの建築狂の古い種族なのである。一つの作品に手をつけるときには、土台を固めず主要な線を引かずにはおかないだろう。最初の数語が紙上に投げ出される前に、頭の中で全体的に組み上げられた作品としては、ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]以上のものは他にない。一九〇三年三月二十日のその日には、私の草稿(一)の中では全編の区分も決定していた。私は明らかに十の部分――十巻――を予見していたし、実現したのとほとんど同じくらいに、線も量も割合も定めておいた。
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(一) ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]に関する原草稿、覚え書や雑記の類はすべて、二|綴《つづ》りにして、ストックホルムのスウェーデン学会のノーベル文庫に、一九二〇年私の手で納められている。ただアントアネット[#「アントアネット」に傍点]の原稿は例外で、それは故郷ニヴェールの地に贈られた。(私はそれを一九二八年、ニヴェールのニエーヴル県立文庫に寄託した。)
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それらの十巻を書き上げるには約十年間を要した(二)。スイスのジュラ山中のフローブュール・スュール・オルタンで――後に、燃ゆる荊[#「燃ゆる荊」に傍点]の傷ついたジャン・クリストフが、樅《もみ》と※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》との悲壮な闘争の近くに潜伏することになった、あの土地で――一九〇三年七月七日に執筆を始めて、マジュール湖岸のバヴェノで、一九一二年六月二日に完結した(三)。その大部分は、パリーの塋窟《カタコンブ》の上手のぐらぐらした小さな家――モンパルナス大通り一六二番地――で書かれたのであって、その家は、一方では、重々しい馬車や都会のたえざるどよめきに揺られていたが、他の一方には、饒舌《じょうぜつ》な雀《すずめ》や喉《のど》を鳴らす山鳩《やまばと》や美声の鶫《つぐみ》が群がってる古木のある、古い修道院の庭の、日の照り渡った静寂さがたたえていた。そのころ私は、孤独な困窮な生活をしていて、友人もあまりなく、自分でこしらえ出す楽しみ以外の楽しみを知らず、教師の務めや論説執筆や歴史の勉強など、堪えがたいほどの仕事をになっていた。糊口《ここう》の労苦に追われて、クリストフのためには日に一時間しか割《さ》けなかったし、それさえ無理なことがしばしばだった。しかしその十年間、一日としてクリストフに面接しない日はなかった。クリストフは口をきいてくれないでもよかった。
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