ジャン・クリストフ
JEAN−CHRISTOPHE
後記
ロマン・ローラン Romain Rolland
豊島与志雄
豊島与志雄訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)擱《お》く

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|綴《つづ》り

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+無」、第3水準1−86−12]
−−

[#地から2字上げ]訳者


 改訳の筆を擱《お》くに当たって、私は最初読者になした約束を果たさなければならない。すなわち、ロマン・ローラン全集版の「ジャン・クリストフ」についている作者の緒言の翻訳である。
 この全集決定版は、私が改訳に使用した改訂版とは、一冊につき数か所、文意に関係ない程度において、字句の微細な差異がある。しかしそれはおもに文章上のことであって、またあるところなどは、改訂版のほうが妥当とさえも思える。それゆえ私は、作者の気息がもっとも直接に通じてるものとして改訂版を、改訳の台本に選んだ。
 それはとにかく、両版はほとんどまったく同一のものであるが、旧版とはずいぶん異なっている。表現の変更などは言うまでもなく、個々の事象にたいする批判の是正さえも多少認めらるる。それで私は、言うまでもないことではあるが、旧訳を廃棄する旨をつけ加えておく。
 さて、以下は前述の作者の緒言である。


       緒言

 ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]は将《まさ》に三十年を閲《けみ》せんとしている。彼の友であり彼を慈《いつくし》み、普通のとおり彼よりいっそう炯眼《けいがん》である一人の作家が、彼のつつましい揺籃《ようらん》をのぞきこんで、汝《なんじ》は十二、三人の昵懇《じっこん》者の範囲外にふみ出すことはなかろうと予言したときから、彼はずいぶん道を進んだ。縦横に世界を遊歴して、現在ではほとんどあらゆる国語で語っている。彼がその旅から種々雑多な服装をしてもどってくるとき、彼の父親のほうは、それもまた三十年来世界の各通路でひどく足をすりへらしているが、時とすると彼を見分けかねることもある。そこで、父親たる私の両腕に抱かれていたころのごく小さな彼はどういう者であったか、また彼はいかなる情況のもとで世に生まれ出ることを求めたかを、ここに回想してみたいのである。

 ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]のことを、私は二十年間以上も考えていたのである。最初の観念は、一八九〇年の春ローマにおいて浮かんだ。最後の言葉は、一九一二年六月に書かれた。作品全体は右の期間以外にまたがる。私が見出した草案には、まだパリーの高等師範学校の学生だったころの一八八八年のものもある。
 最初の十年間(一八九〇―一九〇〇)は、おもむろな孵化《ふか》であり、内的夢想であって、私は眼を開いてそれに身を任せながらも、他の仕事を実現した、すなわち、大革命に関する最初の四つの戯曲(七月十四日[#「七月十四日」に傍点]、ダントン[#「ダントン」に傍点]、狼[#「狼」に傍点]、理性の勝利[#「理性の勝利」に傍点])、「信仰の悲劇」(聖王ルイ[#「聖王ルイ」に傍点]、アエルト[#「アエルト」に傍点])、民衆劇論[#「民衆劇論」に傍点]、その他。私にとってクリストフは、外部には見えない第二の生活であって、そこで私は、自分のもっとも深い自己と接触を保っていた。一九〇〇年の終わりまで私は、ある社会的連係によって、パリーの「広場の市《いち》」につながれていて、そこではクリストフと同様に、ひどく異邦人の感じがした。女が胎児を宿すように私が自分のうちに宿していたジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]は、私にとっては、犯すべからざる避難所であり、「静安の島」であって、荒立った海の中でただ私だけがそこに行けるのだった。私はそこに、将来の戦闘のためにひそかに自分の力を蓄積しておいた。
 一九〇〇年後、私はまったく自由な身となり、自分自身と自分の夢想と自分の魂の軍隊とだけを伴《とも》として、荒波の上に決然と突進していった。
 最初の呼号は、一九〇一年八月暴風雨のある夜、シュウィツのアルプス山の上から発せられた。そのことを、私は今日までかつて公表しなかった。それでも幾多の未知の読者は、私の作品の囲壁に沿って鳴り渡るその反響に気づいてくれた。人の思想の中のもっとも深奥なものは、高声に表白されてるところのものではけっしてない。ジャン・クリストフの眼つきに接しただけですでに、世界に散在してる未見の友人らは、この作品の源泉たる悲壮な友愛、この勇壮な気力の
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング