ことごとくフランスのうちに化身《けしん》せしめていた。他の国民の没落によって運命が栄えるフランスというものを、ヨーロッパの他のすべての国に対立さしてはいなかった。がフランスを他の国々の上に置いて、全部の国々の幸福のために君臨してる正当なる主権者――人類の指導者たる理想の剣としていた。フランスが不正を行なうくらいならば、むしろフランスが滅亡するほうが好ましかった。しかし彼はフランスにたいしていささかも疑念をもっていなかった。彼はその教養も心も徹頭徹尾フランス式であり、フランスの伝統だけに育てられていて、フランス伝統の深い理由を自分の本能のうちに見出していた。他国の思想を生真面目《きまじめ》に否認して、それにたいして軽蔑《けいべつ》的な寛容さをいだいていた。もし他国人がその屈辱的な地位に甘んじないときには、憤慨の念をいだいていた。
クリストフはそれらのことをみな見てとった。しかしもう年取っているし世馴《よな》れているので、それを少しも気にしなかった。その民族的|傲慢《ごうまん》心は人の気を害するものではあったが、彼は別に心を痛められはしなかった。彼は祖国にたいする赤子の愛から来る幻を考量してやって、神聖な感情の誇張を非難しようとは思わなかった。その上に、自己の使命にたいする民衆の誇大な信念は人類のためになるものである。けれども、エマニュエルから遠く離れてる心地を起こさせるすべての理由のうちで、ただ一つ我慢しがたいものがあった。それはエマニュエルの声だった。その声は時とすると極度に鋭い音調に高まっていった。クリストフの耳にはそれがひどくさわった。彼は渋面をせずにはいられなかった。そしてエマニュエルにそれを見つけられないようにつとめた。彼は楽器の音を聞かずに音楽だけを聞こうと骨折った。この不具の詩人が、他の勝利の先駆として精神の勝利を描き出し、また、群集を奮起さして、歓喜せる彼らを、遠い空間のほうへ、あるいは来たるべき復讐《ふくしゅう》のほうへ、ベツレヘムの星のように引き連れてゆく、空中の征服を、「飛行の神」を、描き出すとき、いかに勇壮の美が彼から輝き出したことだろう! けれども、そういう精力の幻影がもってる光輝を見るにつけてもクリストフは、その危険を感ぜずにはいられなかった。その襲撃とその新しいマルセイエーズ[#「マルセイエーズ」に傍点]のしだいに高まる叫び声とが、どこにたどりつくかを予見せずにはいられなかった。彼は多少の皮肉をもって(過去にたいする愛惜も未来にたいする恐怖もなしに)考えた、その歌は歌手が予見していない反響を伴うだろうということを、そして、消え失《う》せた広場の市[#「広場の市」に傍点]の時代を人があこがれる日が来るだろうということを……。あの当時人は実に自由であった。それは自由の黄金時代であった。人はもうけっしてそういう時代を知らないだろう。世界が向かって行きつつある時代は、力と健康と雄々しい活動との時代であり、またおそらく光栄の時代でもあろうが、しかし冷酷な権力と偏狭な秩序との時代であった。その時代を、われわれはいくら希望どおりに、鋼鉄時代、古典《クラシック》時代、と呼んでも詮《せん》ないことだ。偉大なる古典時代は――ルイ十四世もしくはナポレオンの時代は――遠くより見れば人類の絶頂のようにも思われる。そしておそらく国民はその国家的理想をそこにもっともりっぱに実現してるようである。しかしその時代の偉人らになんと考えていたかを尋ねてみるがよい。あのニコラ・プーサンはローマに立ち去ってそこで死んだではないか。彼はこの国では息がつけなかったのである。またあのパスカルやラシーヌは世間に別れを告げたではないか。そして他にももっとも偉大なる人々のいかに多くが、世に合わず迫害せられて孤独な生活を送ったことだろう! モリエールのごとき人の魂の中にも多くの憂苦が潜んでいたではないか。――諸君があれほど愛惜しているナポレオン時代にも、諸君の父祖はみずから幸福だと思いはしなかったようである。そしてナポレオン自身も誤った見解をもってはいなかった。彼は自分の死後に人々がほっと息をつくだろうことを知っていた……。皇帝[#「皇帝」に傍点]の周囲にはいかに思想の沙漠《さばく》が横たわっていたことであるか! それは広漠たる砂原の上に照るアフリカの太陽であった。
クリストフは自分の考えめぐらしてることを少しも口に出さなかった。それとなく匂わせるだけでエマニュエルを怒らせるに足りた。そして彼はもう二度とそれを繰り返さなかった。しかしいかに自分の考えを押えても、エマニュエルは彼がそう考えてることを知っていた。その上クリストフが自分よりも遠くまで見通しておることを朧《おぼ》ろに意識していた。そしてますますいらだつばかりだった。若い人々は、自分の先輩から、二十年後には自分がどうなるだろうかを強《し》いて見させられるのを、許しがたく思うものである。
クリストフはエマニュエルの心中を読み取ってみずから考えた。
「彼にも理由がある。人は各自に信念をもっている。人の信じてることを信じてやらなければいけない。未来にたいする彼の信頼の念を私は乱したくないものだ!」
しかし彼が眼前にいるだけでエマニュエルの心は乱れた。二つの人格がいっしょにいるときには、両者たがいにおのれを潜めようといかに努めても、常に一方は他方を圧迫し、そして他方は屈辱の恨みをいだくものである。エマニュエルの高慢心は、クリストフの経験と性格との優越に苦しめられた。またおそらく彼は、クリストフにたいしてしだいに愛情が生じてくるのを押えてもいたであろう……。
彼はますます粗暴になっていった。扉《とびら》を閉ざしてしまった。手紙をもらっても返事を出さなかった。――クリストフは彼に会うことを断念しなければならなかった。
七月の初めとなった。クリストフはパリーに数か月滞在して、多くの新しい観念を得たが友人をあまり得なかったことどもを、考えまわしてみた。赫々《かくかく》たるしかもばかげた成功だった。弱められもしくは滑稽《こっけい》化された自分の面影を、自分の作品の反映を、凡庸な人々の頭脳の中に見出すこと、それは少しも愉快なことではなかった。そして理解してもらいたい人々からは同感を寄せられなかった。彼らは彼のほうから進んできても受けいれなかった。彼は彼らの希望に自分も加わってその味方の一人になろうといかに願っても、彼らの仲間にはいることができなかった。あたかも彼らの不安な自負心は、彼の友情をしりぞけて彼を敵とするほうを好んでるかのようだった。要するに彼は、時代の流れをやり過ごしてそれとともに移り行かなかったし、またつぎの時代の流れからは好まれなかったのである。彼は孤立していた。そして生涯《しょうがい》それに馴《な》れていたから別段驚かなかった。しかし彼は今や、この新たな試みのあとに、スイスの草廬《そうろ》に立ちもどって、近来ますますはっきりしてきたある計画の実現を待つことにしても、もうさしつかえあるまいと考えた。彼は年を取るに従って、故郷の土地に帰り住みたい願いに悩まされた。もう故郷にはだれも知人はなかったし、この他国の都におけるほどの精神的縁故をも見出し得ないに違いなかった。しかしそれでもやはり故郷であった。人は自分と血を同じゅうする人々に向かって同じ考えをもてよとは求めない。彼らと自分との間には多くのひそかな繋《つな》がりが存している。官能は同じ天地の書物を読むことを知っているし、心は同じ言葉を話している。
彼は自分の違算を快活にグラチアへ書き送って、スイスへ帰るつもりであると言った。そしてパリーを去る許可を戯れに彼女に求めて、翌週出発すると告げた。しかし手紙の終わりに、二伸[#「二伸」に傍点]としてつけ加えた。
――私は意見を変えました。出発を延ばします。
彼はグラチアに全然の信頼を寄せていた。もっともひそかな考えまでも打ち明けていた。それでも彼の心の奥には鍵《かぎ》をかけた一つの室があった。それはただに自分自身ばかりでなくまた自分の愛した人々に関する、思い出の室であった。かくて彼はオリヴィエに関係する事柄は語らなかった。その控え目は故意にしたものではなかった。オリヴィエのことを彼女に語ろうとしても言葉が出なかった。彼女はオリヴィエと面識もなかったのである……。
さてその朝彼がグラチアに手紙を書いていると、扉《とびら》をたたく者があった。彼は邪魔されたのを怒りながら行って開いた。十四、五歳の少年がクラフト氏を尋ねてきたのだった。クリストフは不平ながらも室に通した。少年は金髪で、青い眼をし、繊細な顔だちをし、背はそう高くなく、痩《や》せた身体をしていた。クリストフの前にたたずんで、やや気おくれがしたように黙っていた。がすぐに気を取り直して、澄んだ眼を挙げてクリストフを珍しげにうちながめた。クリストフはそのかわいらしい顔を見て微笑《ほほえ》んだ。少年も微笑んだ。
「ところで、」とクリストフは言った、「なんの用ですか。」
「私が来ましたのは……。」と少年は言った。
(彼はまたおどおどして、顔を赤め、口をつぐんでしまった。)
「あなたが来たことはよくわかっています。」とクリストフは笑いながら言った。「けれど、なんで来たのですか。私のほうを見てごらんなさい。私が恐《こわ》いんですか。」
少年はまた微笑を浮かべ、頭を振って音った。
「いいえ。」
「豪《えら》い!……ではまず、あなたはどういう者であるか言ってごらんなさい。」
「私は……。」と少年は言った。
そして彼はまた言いやめた。彼の眼は不思議そうに室の中を見回していたが、そこの暖炉|棚《だな》の上にオリヴィエの写真を一つ見つけた。クリストフは何気なく彼の視線の方向をたどった。
「さあ、」と彼は言った、「元気を出して!」
少年は言った。
「私はあの人の子供です。」
クリストフははっと驚いた。席から立ち上がって、少年の両腕をとらえて引き寄せ、しっかりつかまえたまままた椅子《いす》に腰をおろした。二人の顔はほとんど触れ合った。そして彼は少年をじっと見守りながら繰り返した。
「君……君……。」
突然彼は少年の頭を両手にかかえて、額や眼や頬《ほお》や鼻や髪に接吻《せっぷん》した。少年はその激しい仕打ちに驚きかついやがって、彼の両腕から抜け出そうとした。クリストフはするままにさせた。そして両手に顔を隠し、額を壁に押しあてて、しばらくじっとしていた。少年は室の隅《すみ》に逃げていた。クリストフは顔をあげた。その顔つきはもう落ち着いていた。彼はやさしい微笑《ほほえ》みを浮かべて少年をながめた。
「君はほんとうにびっくりしたろうね。」と彼は言った。「許してくれたまえ……。ねえ、それも私が彼を深く愛してたからだよ。」
少年はまだ気が和らがないで黙っていた。
「君は実によく彼に似てる!」とクリストフは言った。「それでも私には君がわからなかった。何が違ってるのかしら?」
彼は尋ねた。
「君の名はなんというの。」
「ジョルジュです。」
「なるほど、私は覚えている。クリストフ・オリヴィエ・ジョルジュ……。何歳《いくつ》になる?」
「十四です。」
「十四だって! そんなに昔のことだったかしら?……私には昨日のことのように思える――あるいはいつとも知れない時のことのような気もする……。ほんとに君はよく似てる。同じ顔だちだ。同じ人で、でもやはり別な人だ。眼の色は同じだが、同じ眼じゃない。同じ笑顔で同じ口だが、同じ声音じゃない。君のほうがずっと丈夫だし、まっすぐな身体をしてる。君のほうがずっと豊かな顔をしてるが、でも君は彼と同じように顔を赤らめる。ここへ来てすわりたまえ、話をしよう。だれが君を私のところによこしたんだい。」
「だれでもありません。」
「君一人で来たのかい。どうして私を知ってるの?」
「あなたのことを聞きましたから。」
「だれから?」
「お母《かあ》さんから。」
「ああ!」とクリストフは言った。「お母さんは君が私のところへ来たことを知っ
前へ
次へ
全34ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング