、彼は何かの方法を講じて熱烈に勉強した。時には、小男の彼の精力に感心した善良な人々の支持を得たが、またさらにしばしば、彼の困窮と才能とを利用せんとする人々の手にかかった。そして多くの苦しい経験を積み、虚弱な健康の残りを失っただけで、さほど悲観もしないで通りぬけてきた。古代言語にたいする特別な能力(古典崇拝の伝統が沁《し》み込んでる民族においては、それは人が思うほど異常なものではないが)のために彼は、ギリシャ研究家である一老牧師の同情と支持とを得た。彼はその研究をあまり進めるだけの隙《ひま》を得なかったが、それは彼のために精神の訓練となり文体の習得となった。民衆の泥《どろ》の中から出て来た彼の教育は、すべてその時々に独習されたものであり、非常な欠陥を示してはいたが、それでも彼は、中流の青年が十年間の大学教育によっても得られないほどの、言辞上の表現の才と思想による形式の駆使とを、得てきたのだった。彼はそれをオリヴィエのおかげだとしていた。他にも彼をもっと有効に助けてくれた者は幾人かいた。しかし彼の魂の闇夜の中に永遠の燈火を点じた火花は、オリヴィエから来たのだった。他の人々はただその燈火に油を注いでくれたばかりだった。
 彼は言った。
「私はあの人がこの世を去るときになってようやく、あの人を理解し始めました。けれどもあの人が私に言ってきかしたことは、みな私の中にはいっていました。あの人の光は、かつて私から離れたことがありません。」
 彼は自分の作品のことを話した。オリヴィエから譲り受けたと自称してる仕事のことを話した。すなわち、フランス人の精力の覚醒《かくせい》、オリヴィエがあらかじめ告げていた勇壮な理想主義の火種、などのことを話した。争闘の上を翔《かけ》って来るべき勝利を告ぐる高らかな声に、みずからなろうと欲していた。復活した己《おの》が民族の叙事詩を歌っていた。
 その不思議な民族は、征服者たるローマの古着と法則とを己が思想に着せかけて、妙な慢《ほこ》りを感じながらも、古いケルトの香気を幾世紀間も強く保存してきたのであった。そしてエマニュエルの詩は、まさしくその民族の所産であった。あのゴール人特有の大胆さ、狂気じみた理性と皮肉と勇壮との精神、ローマ元老院議員らの髯《ひげ》をむしりにゆき、デルポイの寺院を略奪し、笑いながら天に向かって投鎗《なげやり》を投ずる、あの高慢と馬鹿元気との混合、などがまったくそのまま彼の詩の中に見えていた。しかしパリーの靴《くつ》屋の小僧である彼は、鬘《かつら》をつけていた先人らがなしたように、また後人らがかならずなすだろうように、二千年前に死んだギリシャの英雄らや神々の身体のうちに、自分の熱情を化身せしむることが必要だった。それは実に、自分の絶対要求と合致するこの民族の不思議な本能である。自分の思想を過去の時代の痕跡《こんせき》の上にすえながら、その思想をあらゆる時代に課そうとしてるがようである。そういう古典的形式の束縛はかえって、エマニュエルの熱情にいっそう激しい勢いを与えていた。フランスの運命にたいするオリヴィエの平静な信念は、その子弟たるこの青年のうちでは、行動を渇望し勝利を信じてる燃えたった信念に変わっていた。彼は勝利を欲し、勝利を眼に見、勝利を要求していた。その誇大な信念と楽観的思想とによって、彼はフランス民衆の魂を奮起さしたのだった。彼の書物は戦闘ほどの効果があった。彼は懐疑と恐怖とからの出口を開いた。若い時代の人々は皆彼のあとにつづいて、新しい運命のほうへ飛び出していた……。
 エマニュエルは話してるうちに興奮していった。眼は燃えたってき、蒼《あお》ざめた顔には赤味がさしてき、声は疳高《かんだか》になってきた。その焼きつくすような情火とその薪《まき》になってる惨《みじ》めな身体との対照を、クリストフは眼に止めざるを得なかった。そしてその運命の痛ましい皮肉にはあまり注意しなかった。精力のこの歌人、果敢な遊戯と行動と戦争との時代を賞揚してるこの詩人は、少し歩いても息切れがし、質素な生活をし、きわめて厳格な摂生を守り、水を飲み物とし、煙草《たばこ》を吸うことができず、女に近づかず、あらゆる情熱を内に蔵しながら、健康のために禁欲主義を事としなければならなかった。
 クリストフはエマニュエルを観察しながら、感嘆と親愛な憐憫《れんびん》との交じり合った気持を覚えた。彼はそれを少しも様子に示そうとはしなかった。しかし彼の眼はそれを多少現わしていたに違いなかった。あるいはまた、脇《わき》腹に常に開いている傷口をもってるエマニュエルの自負心は、憎悪よりもいっそう嫌《いや》な憐愍《れんびん》の念を、クリストフの眼の中に読みとれるように思った。そして彼の熱は突然さめた。彼は話しやめた。クリストフは彼をまた打ち解けさせようとしたが駄目だった。彼の魂は扉を閉ざしてしまっていた。クリストフは自分が彼の気持を害したことに気づいた。
 対抗的な沈黙がつづいた。クリストフは立ち上がった。エマニュエルは一言もいわずに扉口《とぐち》まで送ってきた。彼の足取りは彼が不具なことを示していた。彼はそれをみずから知っていたし、自負の念からそれを気にかけない様子をしていた。しかしクリストフから観察されてると考えて、ますます恨みの念を含んだ。
 彼がクリストフと冷やかな別れの握手をかわしてるとき、優美な若い婦人が訪れてきた。彼女は生意気な洒落《しゃれ》者を一人引き連れていた。クリストフはその男に見覚えがあった。芝居の初演のおりによくその男が微笑《ほほえ》んだりしゃべったり、手をあげて挨拶《あいさつ》をしたり、婦人たちの手に接吻《せっぷん》したり、舞台前の自席から劇場の奥まで微笑を送ったりしてるのを、クリストフは見かけたことがあった。そして名前を知らないので、ただ「馬鹿者」だと呼んでいた。――その馬鹿者と連れの女とは、エマニュエルの姿を見て、追従《ついしょう》的な馴《な》れ馴れしい言葉を述べたてながら、「親愛なる先生」のほうへ飛びついていった。クリストフは遠ざかりながら、ただいま用があって面会できないと答えてるエマニュエルの冷淡な声を聞いた。そしてこの男の人をいやがらせる才能に感心した。無遠慮な訪問を与えに来る富裕な軽薄才士らに嫌《いや》な顔をしてみせる理由が、彼にはよくわからなかった。彼らはりっぱな言葉や賛辞をやたらに振りまくではないか。しかしエマニュエルの悲惨を和らげようとは少しもしないのだった。セザール・フランクの有名な友人らがピアノの出稽古《でげいこ》を少しも彼にやめさせようとはしないで、最後の日まで生活のためにつづけさせたのと、ちょうど同じであった。
 クリストフはそれから何度もエマニュエルを訪れた。しかし最初の訪問のときのような親しみをよみがえらせることはできなかった。エマニュエルは彼に会って少しもうれしい様子を示さないで、疑念深い控え目を守っていた。ただ時とすると、才能の発露に駆らるることがあった。クリストフの一言に奥底まで揺《ゆす》られた。そして夢中になって心の中を披瀝《ひれき》した。彼の理想主義はその隠れたる魂の上に、閃々《せんせん》たる詩の光輝を投げかけた。けれどもそれから突然彼はふたたび沈み込んだ。意固地な沈黙のうちに固くなった。そしてクリストフはふたたび敵対者を見出すのだった。
 あまりに多くのことが二人を隔てていた。年齢の差異もその一つだった。クリストフは豊満な意識と自己統御とのほうへ進みつつあった。エマニュエルはまだ自己形成中であって、クリストフのいつの時代よりもいっそう渾沌《こんとん》としていた。彼の独特な風格は、たがいに取り組み合ってる種々の矛盾した要素から来ていた。遺伝的欲望にさいなまれてる性質を――(アルコール中毒者と売笑婦との子供を)――制御せんとつとめてる力強い堅忍主義、鋼鉄のような意志の轡《くつわ》の下に荒立ってる熱狂的な想像力、どちらも広大な――(いずれが勝つともわからない)――利己心と他愛心、勇壮な理想主義と優秀な他人に病的な不安を覚える貪婪《どんらん》な名誉心。オリヴィエの思想や独立心や清廉さなどが彼のうちにあったし、また彼は行動をけっしていやがらない平民的な活力によって、詩的才分によって、いかなる嫌悪《けんお》にも平然たるだけの厚顔さによって、オリヴィエよりすぐれていたけれど、しかしアントアネットの弟たるオリヴィエの静朗さには、なかなか達することができなかった。彼の性格には虚栄と不安とがあった。そして他の人々の混濁がさらに彼の混濁に加わっていた。
 彼は隣の若い女と落ち着かない共同生活をしていた。クリストフが初めて来たとき出迎えた女がそれだった。彼女はエマニュエルを愛していて、細心に彼のめんどうをみてやり、彼の生活を整え、彼の作品を写し直し、彼の口述を書き取っていた。彼女はきれいではなかった。そして熱烈な魂をもっていた。平民の出であって、長い間ボール紙工場の女工をし、つぎには郵便局の雇員になって、その幼年時代に、パリーの貧しい労働者に通例な環境に苦しんできた。魂も身体も他人といっしょにつみ重ねられ、疲労の多い仕事をし、たえず人中に混じり、空気もなく、沈黙もなく、一人きりのこともなく、思いを澄ますこともできず、心の神聖な隠れ場を保つこともできなかった。けれども彼女は高慢な精神をもっていて、漠然《ばくぜん》たる真理の理想にたいして敬虔《けいけん》な熱情をいだいていたので、眼が疲れきるのもいとわずに、夜中、時とすると燈火もなく月の光で、ユーゴーのレ[#「レ」に傍点]・ミゼラブル[#「ミゼラブル」に傍点]を写し取っていた。彼女がエマニュエルに会ったとき、エマニュエルは彼女よりもいっそう不幸で、病気にはかかるし生活の手段もなかった。彼女は彼に一身をささげた。その情熱は彼女には最初のものであり、生涯《しょうがい》にただ一度の恋愛だった。それで彼女は飢えたる者の執念をもってそれにすがりついた。その愛情は受けるよりも与えるほうが少ないエマニュエルにとっては、恐ろしい重荷だった。彼は彼女の献身に心打たれてはいた。彼女は彼にとって女友だちのうちのもっともよいものであり、彼を全世界とも見なして彼なしでは生きられないただ一人の者である、ということを彼は知っていた。しかしその感情がまた彼を圧倒した。彼には自由が必要であり孤独が必要だった。むさぼるように彼の眼つきを求めてる彼女の眼が、うるさく彼につきまとった。彼は彼女に荒々しい口をきいた。
「行っちまえ!」と言ってやりたかった。また彼女の醜さや粗暴さにもいらだたせられた。彼は上流社会を見たことはあまりなかったし、また上流社会にたいして多少|軽蔑《けいべつ》の念を示していた――(なぜなら、上流社会にはいって自分の醜さと滑稽《こっけい》さとがいっそう目立つのを苦にしていたから)――けれども優美な姿態には感じやすかった。そして彼が自分の女の友にたいしていだいてるのと同じ感情を、彼にたいしていだいてる(それを彼は少しも気づかなかったが)女たちに、心をひかれていた。彼は彼女に愛情を示そうとつとめた。しかしその愛情を実際にもってはいなかったし、たといもっていてもそれは無意識的な憎悪の激発によってたえず暗くされた。そして彼は愛情を示すことができなかった。彼は胸の中に、善をなしたいというりっぱな心をもってはいたが、また悪をなしたがる暴虐な悪魔をももっていた。その内心の戦いと、自分の有利には戦いを終え得ないという意識とが、彼を駆って暗黙な激昂《げっこう》に陥らしていた。そしてその飛沫《ひまつ》をクリストフは受けたのだった。
 エマニュエルはまたクリストフにたいして、二重の反感をみずから禁じ得なかった。一つは昔の嫉視《しっし》から出てきたものだった。(幼年時代のそういう熱情は、虜囚が忘れられたときにもなおその力が残存しているものである。)も一つは熱烈な国家主義から出て来たものだった。前時代のすぐれた人々によって考えられた正義や憐憫《れんびん》や人類親和などの夢想を、彼は
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