全である。ローマにおればあまりにやすやすと時代から脱する。洋々たる前途を有するまだ若々しい力にとっては、時代から脱することは危険な趣味である。グラチアは自分の周囲の世界が、芸術家にたいしては活気を与える環境でないことを知っていた。そして彼女は他のだれにたいするよりも多くの友情をクリストフにたいしていだいてはいた……(それをあえて自認し得たかどうかはわからないが)……けれど心の底では、彼が遠ざかることを嫌《いや》だとは思わなかった。悲しいかな彼は、彼女から愛されてるあらゆる性質によって、その知力の過度の充実によって、数年間蓄積されてあふれてる生の豊満によって、彼女を疲らしていた。彼女の安静は乱されていた。そしてまたおそらく彼女は、彼の愛の脅威を常に感ずるので疲らされていた。その愛は美しく心打つものではあったが、しかしまた執拗《しつよう》なものであって、それにたいして常に警戒していなければならなかった。彼を遠くに離しておくほうが慎重な道だった。彼女はそのことをみずからはっきり認めたくはなかった。そしてただクリストフの利害だけを考えてるのだと思っていた。
 彼女はりっぱな理由を見当たらないで
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