とならなければいけない……。
この数か月の間、クリストフは音楽を忘れはてたかのようだった。彼は音楽の必要を感じなかった。彼の精神はローマから受胎して懐妊していた。彼は夢幻と半酔との状態で日々を送った。自然もちょうど彼と同じく、眼覚《めざ》めの懶《ものう》さに快い眩暈《めまい》が交じる初春であった。自然と彼とは、眠りながらもたがいに抱きしめる恋人同士のように、からみ合って夢みていた。ローマ平野の熱っぽい謎《なぞ》のうちに、彼はもはや敵意を感じなかった。彼はその悲壮美の主となっていた。眠れるデメーテルを両腕に抱きかかえていた。
四月に、彼はある一連の音楽会を指揮に来てくれとの提議をパリーから受けた。それをよく調べもしないで彼は断わろうとした。けれどまずグラチアに話してみなければならないと思った。彼は一身上のことについて彼女に相談するのが楽しみだった。それによって彼女も自分と生活を共にしてるのだという気持がもてるのだった。
ところがこのたびは、彼女は彼にひどい失望を与えた。彼女はその事柄を落ち着き払って問いただした。それから、承諾するようにと勧めた。彼は悲しくなった。彼女の冷淡を見せ
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