赤ら顔の豪傑や闘技者などの動物的な愚鈍さは、彼には肉弾のように思われた。ただ一人ミケランジェロにたいしては、その悲壮な苦悶《くもん》や崇高な蔑視《べっし》や貞節な情熱の真摯《しんし》さなどのために、彼もひそかに敬意をいだいた。その青年らの謹厳な裸体、狩り出された獣のような荒くれた処女たち、悩める曙[#「曙」に傍点]、子供に乳房《ちぶさ》をくわえられてる荒々しい眼つきのマドンナ[#「マドンナ」に傍点]、妻にもほしいような美しいリア[#「リア」に傍点]などを、彼はこの巨匠の愛と同じき純潔粗野な愛をもって愛した。けれども、この苦しんだ偉人の魂の中に彼が見出したのは、ただ自分の魂の拡大された反響にすぎなかった。
 ところがグラチアは新しい芸術の世界の扉《とびら》を彼に開いてくれた。彼はラファエロやティツィアーノの崇厳な晴朗さの中に足を踏み入れた。形体の世界を征服し支配して獅子《しし》のように君臨してる古典芸術の天才の堂々たる光輝を彼は見てとった。心の中までまっすぐにはいり込み、生命を覆《おお》うている朦朧《もうろう》たる霧を己《おの》が光輝でつん裂く、この偉大なるヴェネチア人の雷電的な視力――
前へ 次へ
全340ページ中67ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング