、口に指をあてて、「しッ!」と言った――そして姿を隠した。

 そのとき以来、彼はもう自分の愛を彼女に語らなかった、そして彼女との関係も前ほど窮屈ではなくなった。わざとらしい沈黙と押えかねた激情とが交互に起こってくる状態だったのが、今や単純なしみじみとした親しみとなった。それこそ腹蔵なき友情の恩恵である。もはや言外の意味を匂《にお》わせることもなく、幻影もなく恐れもなかった。二人はそれぞれ相手の心底を知っていた。クリストフが、癪《しゃく》にさわる無関係な連中の中でグラチアといっしょにいて、客間の常例たるつまらぬ事柄を彼女が彼らと話してるのを聞いて、いらいらしだしてくると、彼女はそれに気がつき、彼のほうをながめて微笑《ほほえ》んだ。それでもう十分だった。彼は自分たち二人がいっしょにいることを知った。そして心の中が和らいでいった。
 愛するものが自分の前にいると、人の想像力はその毒矢を奪われる。欲望の熱はさめる。愛するものを眼前に所有してるという清浄な楽しみのうちに、魂はうっとりと沈み込む。――その上グラチアは、そのなごやかな性質の暗黙の魅力を、周囲の人々の上に光被していた。身振りや音調の
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