その理由がないんですもの、確かに。」
「なぜです?」
「あなたをたいへん愛してる女の友だちが一人いますから。」
「ほんとうですか。」
「私がそう申すのに、お信じなさらないのですか。」
「それをも一度言ってください。」
「そしたらもう悲しみなさいませんか。それでもう十分におなりになりますか。私たちの貴《とうと》い友情で満足できるようにおなりになりますか?」
「そうせざるを得ません。」
「ほんとに勝手な人ですこと! それであなたは私を愛してるとおっしゃるのですか? ほんとうは、あなたが私を愛してくださるよりも、もっと深く私はあなたを愛していると思いますわ。」
「ああ、もしそうだったら!」
 彼はあまりに愛の利己心に駆られてそう言ったので、彼女は笑った。彼も笑った。彼はなお執拗《しつよう》に言った。
「言ってください……。」
 ちょっと、彼女は口をつぐみ、彼をながめ、それから突然、彼の顔に自分の顔を寄せて、接吻《せっぷん》した。いかにも不意のことだった。それは彼の心にひしと響いた。彼は彼女を両腕に抱きしめようとした。が彼女はもう離れていた。その客間の入り口に立っていて、彼女は彼をながめながら
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