身はもう枯れてしまっています。ああ、昔の熱情のことを考えてみますと! だれかが言いましたように、それはほんとにいい時でした。私は実に不幸でした! 今では私はもう、不幸であるだけの力ももちません。ただ一筋の細い生命があるばかりです。あえて結婚をしてみるだけの勇気もありません。ああ、昔でしたら、昔でしたら!……私の知ってるどなたかがちょっと合図をしてくだすっていたら!……」
「そしたら、そしたら、言ってください……。」
「いいえ、無駄《むだ》ですわ。」
「で、昔、もし私が……ああ!」
「え、もしあなたが?……そんなことを私は何も申しはしません。」
「私にはわかっています。あなたは残酷です。」
「ただ私は昔狂人でした、それだけのことですわ。」
「それはなおひどい言葉です。」
「ねえあなた、私はあなたを苦しめるようなことは一言も申せないんです。だからもう何にも申しますまい。」
「でも、言ってください……。何か言ってください。」
「何を?」
「何かいいことを。」
 彼女は笑った。
「笑っちゃいけません。」
「そしてあなたは、悲しんではいけません。」
「どうして悲しんではいけないんでしょう?」

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