も、」と彼は言いつづけた、「そのときあったことも、前にあったことも、すっかり忘れてしまいました。私はふたたび生き始めた新しい人間のようになっています。」
「ほんとうにそうですわ。」と彼女はにこやかな眼で彼をながめながら言った。「この前お目にかかったときからすっかりお変わりなさいましたね。」
 彼もまた彼女をながめた。そして記憶の中の彼女とやはり異なってるように思った。けれども彼女は二か月前と変わってるのではなかった。ただ彼がまったく新しい眼で彼女を見てるのだった。彼方《かなた》スイスでは、昔のころの面影が、年若いグラチアの軽い影が、彼の眼と眼前の彼女との間に介在していた。ところが今では、北方の夢はイタリーの日の光に融《と》かされていた。彼は白日の光の中に、恋人の実際の魂と身体とを見た。パリーにとらわれてた野の仔山羊《こやぎ》とは、また、彼女の結婚後間もなくある晩出会ってやがて別れたおりの、聖ヨハネみたいな微笑《ほほえ》みをしてる若い女とは、彼女はいかに違ってたことだろう! ウンブリアの小さな娘から、美しいローマ婦人の花が咲きだしていた。

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真の色艶[#「真の色艶
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