をどうお思いになりますか。」
「なんとも思いません。」と彼は言った。「まだ何にも見ていませんから。」
「それでも……。」
「何にも見なかったんです、記念の建物一つも。旅館からまっすぐにあなたのところへ来ましたから。」
「ちょっと歩けばローマは見られますよ……。あの正面の壁を御覧なさい……そこに当たってる光を見さえすればいいんですよ。」
「私はあなただけを見てるんです。」と彼は言った。
「ほんとにあなたはわからない人ですね、ご自分の考えしか見ていらっしゃらないんですね。そして何時《いつ》スイスをお発《た》ちになりましたの。」
「一週間前です。」
「では今まで何をしていらしたんですか。」
「知りません。偶然海岸のある地に止まったんです。どういう所だか注意もしませんでした。一週間眠っていました。眼を開いたまま眠っていたんです。何を見たか自分でも知りません、何を夢みたか自分でも知りません。ただあなたのことを夢みたようです。たいへん愉快だったことを知っています。けれどいちばんいいことには、何もかも忘れました……。」
「ありがとう。」と彼女は言った。
(彼はそれを耳に入れなかった。)
「……何もか
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