声の抑揚だったか、それを彼は覚えなかった。しかしそのときは、橄欖樹《オリーヴ》に覆《おお》われた四方の丘、濃い影と強い日光とにくっきり浮き出されてるアペニン連山の高い光った頂、香橙《オレンジ》の林、海の深い呼気など、周囲のすべてのものから、女の友のにこやかな顔が輝き出した。空気の無数の眼によって、彼女の眼は彼をながめていた。あたかも薔薇《ばら》の木から一輪の花が咲き出すように、彼女はその土地から咲き出していた。
そこで彼は、ふたたびローマ行きの汽車に乗ってどこにも降りなかった。イタリーの追憶にも過去の芸術の都にもさらに興味がなかった。ローマでも、何にも見なかったし、何にも見ようとはしなかった。そして通りがかりに最初見てとったもの、無様式な新しい街衢《がいく》や四角な大建築などは、もっとローマを知りたいとの念を起こさせはしなかった。
到着するとすぐに彼はグラチアのところへ行った。彼女は彼に尋ねた。
「どこを通っていらしたんですか。ミラノやフィレンツェにお寄りになりましたか。」
「いいえ。」と彼は言った。「寄ってどうするんです?」
彼女は笑った。
「面白い御返辞ですこと! ではローマ
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