のもってるものに満足しなければならない!……
 クリストフはアルプスの連山から出て、客車の片隅《かたすみ》にうとうとしながら、清らかな空と山腹に流れている光とを見たとき、あたかも夢をみてるような気がした。どんよりした空と薄暗い日の光とは山脈の彼方《かなた》に残されていた。その変化があまりに急激だったので、初め彼は喜びよりもさらに多くの驚きを感じた。しばらくたってからようやく、麻痺《まひ》していた彼の魂はしだいに弛《ゆる》んでき、彼を閉じ込めていた外皮は裂けてき、心は過去の影から脱してきた。その日が進むに従って、柔らかな光が彼を抱き包んだ。そして彼は今まで存在していたすべてのものの記憶を失って、うちながめることの喜びをむさぼるように味わった。
 ミラノの平野。産毛《うぶげ》の生《は》えたような水田を網目形に区切ってる青っぽい運河、その運河の中に映ってる日の光。褐色《かっしょく》の細葉を房々《ふさふさ》とつけ、捩《ねじ》れた面白い体躯《たいく》の痩《や》せたしなやかさを示してる、秋の樹木。橙《だいだい》色や金縁や淡碧《うすみどり》に縁取られた重畳してる線で、地平を取り囲みながら、柔らかな輝
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