けさせようとしたが駄目だった。彼の魂は扉を閉ざしてしまっていた。クリストフは自分が彼の気持を害したことに気づいた。
 対抗的な沈黙がつづいた。クリストフは立ち上がった。エマニュエルは一言もいわずに扉口《とぐち》まで送ってきた。彼の足取りは彼が不具なことを示していた。彼はそれをみずから知っていたし、自負の念からそれを気にかけない様子をしていた。しかしクリストフから観察されてると考えて、ますます恨みの念を含んだ。
 彼がクリストフと冷やかな別れの握手をかわしてるとき、優美な若い婦人が訪れてきた。彼女は生意気な洒落《しゃれ》者を一人引き連れていた。クリストフはその男に見覚えがあった。芝居の初演のおりによくその男が微笑《ほほえ》んだりしゃべったり、手をあげて挨拶《あいさつ》をしたり、婦人たちの手に接吻《せっぷん》したり、舞台前の自席から劇場の奥まで微笑を送ったりしてるのを、クリストフは見かけたことがあった。そして名前を知らないので、ただ「馬鹿者」だと呼んでいた。――その馬鹿者と連れの女とは、エマニュエルの姿を見て、追従《ついしょう》的な馴《な》れ馴れしい言葉を述べたてながら、「親愛なる先生」の
前へ 次へ
全340ページ中125ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング