したが、思想は形式とともにすぐ逃げ去ってしまいました。そして結局平凡なことしか表現できませんでした。もっともいけないのは、この凡庸人のうちに何かある偉大なものが実際に存在していたことです。私は彼の旧作を二つ読んでみました。所々に奇警な観念がこもっていて、しかもそれが荒削りの状態のままですぐに変形させられています。泥炭《でいたん》坑の上に鬼火が燃えてるようなものです……。そして彼は実に不思議な頭脳の所有者です。私にベートーヴェンの奏鳴曲《ソナタ》を説明してくれましたが、その中に子供らしい奇体な物語があるのだと見ています。しかし彼は実に熱情家で、どこまでも真面目な男です。ベートーヴェンの奏鳴曲のことを話すときには、眼に涙を浮かべます。愛するもののためになら死んでも恨みとしますまい。滑稽《こっけい》でまた人の心を打つ人物です。私は彼を面と向かってあざけってやりたくなるかと思えば、すぐに抱擁してやりたくなるのが常です……。真底から正直な男です。パリーの各流派の法螺《ほら》と虚偽の光栄とをひどく軽蔑《けいべつ》しています――それでも、成功してる人々にたいしては、小中流人風の無邪気な感嘆の念をいだ
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