ジャン・クリストフ
JEAN−CHRISTOPHE
第十巻 新しき日
ロマン・ローラン Romain Rolland
豊島与志雄訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)将《まさ》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)多少|軽蔑《けいべつ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「風にょう+炎」、第4水準2−92−35]
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     序

 予は将《まさ》に消え失《う》せんとする一世代の悲劇を書いた。予は少しも隠そうとはしなかった、その悪徳と美徳とを、その重苦しい悲哀を、その漠《ばく》とした高慢を、その勇壮な努力を、また超人間的事業の重圧の下にあるその憂苦を。その双肩の荷はすなわち、世界の一総和体、一の道徳、一の審美、一の信仰、建て直すべき一の新たな人類である。――そういうものでわれわれはあった。

 今日の人々よ、若き人々よ、こんどは汝《なんじ》らの番である! われわれの身体を踏み台となして、前方へ進めよ。われわれよりも、さらに偉大でさらに幸福であれよ。
 予自身は、予の過去の魂に別れを告げる。空《むな》しき脱穀《ぬけがら》のごとくに、その魂を後方に脱ぎ捨てる。人生は死と復活との連続である。クリストフよ、よみがえらんがために死のうではないか。

   一九一二年十月
[#地から2字上げ]ロマン・ローラン
[#改ページ]
[#「汝いみじき芸術よ、いかに長き黎明の間……」の楽譜(fig42599_01.png)入る]
[#天から7字下げ](汝いみじき芸術よ、いかに長き黎明の間……)

 生は過ぎ去る。肉体と霊魂とは河水のごとく流れ去る。年月は老いたる樹木の胴体に刻み込まれる。形体の世界はことごとく消磨《しょうま》しまた更新する。そして不滅なる音楽よ、ただ汝のみは過ぎ去らない。汝は内心の海である。汝は深き魂である。汝の清澄な眸《ひとみ》には、生の陰鬱《いんうつ》な顔は映らない。汝から遠くに、燃えたてる日、渡れる日、いらだてる日などが、不安に追われ、何物にも定着さるることなく、雲の群れのごとく、逃げ去ってゆく。しかし汝のみは過ぎ去らない。汝は世界の外にある。汝一人で一の世界をなしている。星の輪舞を導く太陽と、引力と数と法則とを、汝は有している。夜の大空の野に煌《きら》めく畝《うね》をつける星辰《せいしん》――眼に見えぬ野人の手に扱われる銀の鋤《すき》――その平和を汝はもっている。

 音楽よ、清朗なる友よ、下界の太陽の荒々しい光に疲れた眼には、月光のごとき汝の光がいかに快いことであろう! 万人が水を飲まんとて足を踏み込み濁らしてる共同水飲み場から、顔をそむけた魂は、汝の胸に取りすがって、汝の乳房から夢想の乳の流れを吸う。音楽よ、処女なる母親よ、清浄なる胎内にあらゆる情熱を蔵しており、燈心草の色――氷塊を流す淡緑色の水の色――をしている両眼の湖《みずうみ》に、善と悪とを包み込んでいる汝は、悪を超越しまた善を超越している。汝のうちに逃げ込む者は世紀の外に生きる。その日々の連続はただ一つの日にすぎないであろう。すべてを噛《か》み砕く死もかえって己《おの》が歯をこわすであろう。

 私の痛める魂をなだめてくれた音楽よ、私の魂を平静に堅固に愉快になしてくれた音楽よ――私の愛であり幸《さち》である者よ――私は汝の純潔なる口に接吻《せっぷん》し、蜜《みつ》のごとき汝の髪に顔を埋め、汝のやさしい掌《たなごころ》に燃ゆる眼瞼《まぶた》を押しあてる。二人して口をつぐみ眼を閉じる。しかも私は汝の眼の得も言えぬ光を見、汝が無言の口の微笑《ほほえ》みを吸う。そして汝の胸に身を寄せかけながら、永遠の生の鼓動に耳を傾けるのだ。
[#改ページ]

     一


 クリストフはもはや過ぎ去る年月を数えない。一滴ずつ生は去ってゆく。しかし彼の[#「彼の」に傍点]生は他の所にある。それはもう物語をもたない。物語はただ彼が作る作品のみである。湧《わ》き出づる音楽の絶えざる歌は、魂を満たして、外界の擾音《じょうおん》を感じさせない。
 クリストフは打ち勝った。彼の名前は世を圧した。彼の髪は白くなった。老年がやってきた。しかしそれを彼は気にかけない。彼の心は常に若々しい。彼は自分の力と信念とを少しも捨てなかった。彼はふたたび平静を得ている。しかしそれはもはや燃ゆる荊[#「燃ゆる荊」に傍点]を通る前と同じではない。彼は自分の奥底に、暴風雨の轟《とどろ》きをまだもっているし、荒立った海が示してくれたある深淵《しんえん》の轟きをまだもっている。戦闘を統ぶる神の許しがなければ、だれもみずから自分の主であると自惚《うぬぼ》れ
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