てはいけないことを、彼は知っている。彼は自分の魂のうちに二つの魂をになっている。一つは高い平原で、風に打たれ雲に覆《おお》われている。も一つはそれの上に高くそびえていて、一面に光を浴びてる雪の峰である。人はそこにとどまることができない。しかし下方の霧に冷え凍えるときには、太陽のほうへのぼってゆく道がわかっている。クリストフはその靄《もや》かけた魂の中で、ただ一人きりではない。友たる音楽、強健な聖チェチリアが天に聴《き》き入ってる大きな静かな眼をして、自分のそばにいることを、彼は感じている。そして、剣によりかかって口をつぐみ夢想している使徒パウロ――ラファエロの画面の中のパウロ――のように、彼はもはやいらだたず、もはや戦おうとは考えない。彼は自分の夢想を築き上げる。
彼は生涯《しょうがい》のこの時期において、ことにピアノや室内楽のために作曲した。そういう方面ではより自由に大胆な試みができる。思想とその具現との間に仲介物が少ない。思想が途中で弱ってくる隙《ひま》はない。フレスコバルディーやクープランやシューベルトやショパンは、その表現と形式との大胆さによって、管弦楽の革命者らより五十年も先立ったのである。クリストフの強健な手がこね上げた音響の捏粉《ねりこ》からは、いまだ世に知られぬ和声《ハーモニー》の集団が、人を眩暈《めまい》せしむるばかりの和音の連続が、出て来た。それは現今の感受性が聞き取り得る音のうちの、もっとも遠い縁故のものから発生してるのだった。そして人の精神の上に、神聖なる惑わしを投げかけた。――しかしながら、偉大な芸術家が大洋の底に沈んでもたらしてくる獲物《えもの》に馴《な》れるには、公衆にとっては時間を要する。クリストフの近作の大胆さを理解し得る者は、きわめて少数の人々だった。彼の光栄はすべて初期の作品のおかげだった。成功しながら人に理解されないということは、救済の道がないように見えるので、不成功のおりよりもいっそう辛《つら》いものであって、その感情のためにクリストフのうちには、唯一の友の死亡以来きざしていた、世間から孤立するというやや病的な傾向が、ますます強くなってきた。
けれども、ドイツの門戸はふたたび彼へ開かれていた。フランスでも、あの悲壮な暴挙は忘れられていた。彼は自分の欲する所へはどこへ行こうと自由だった。しかし彼はパリーにおいて自分を待ち受けてる思い出を恐れていた。そして、ドイツへは数か月間もどったことがあり、自作の演奏を指揮するためにときどきもどって行くことがあったけれど、そこに定住しはしなかった。あまりに多くの事柄が彼の気をそこなった。それはドイツ特有の事柄ではなかった。他へ行っても見出されるものだった。しかし人は他国よりも自国にたいしてはいっそう気むずかしくなるものであり、自国の弱点をより多く苦にするものである。また実際、ドイツはヨーロッパの罪悪のもっとも多量をになっていた。人は勝利を得るときには、それについて責任を有し、打ち負かした人々にたいして一つの負債をもっている。彼らの先に立って進み、彼らに道を示してやるという、暗黙の契約を結ぶのである。勝利者のルイ十四世は、フランスの理性の光輝をヨーロッパにもたらした。しかるにセダンの勝利者たるドイツは、いかなる光明を世にもたらしたか? 銃剣の光輝をか? それは、翼のない一つの思想、寛容のない一つの行動、獰猛《どうもう》なる一つの現実主義であった。健全なるものだとの口実さえも許されぬ現実主義であった。暴力と利益、行商人のマルス神であった。四十年の間、ヨーロッパは闇夜《やみよ》の中に引き込まれ恐怖に圧倒された。太陽は勝利者の兜《かぶと》の下に隠れた。消光器を取り除くだけの力のない被征服者らは、多少|軽蔑《けいべつ》の交じった憐憫《れんびん》をしか受くる資格がないとしても、この兜をつけた人のほうは、いかなる感情をもって遇せられるに相当するだろうか?
少し以前から、日の光がまた現われ始めていた。数条の光が隙間《すきま》からさしていた。太陽ののぼるのをまっ先に見んがために、クリストフは兜の影から出た。そして先ごろ余儀なく滞留していた国へ、スイスへ、喜んでもどっていった。相敵対してる国民間の狭い境域に息づまって自由に渇《かっ》している、当時の多くの人々と同様に、彼もまたヨーロッパを超越して息をつき得る一角の地を求めていた。昔ゲーテの時代には、自由なる法王の支配するローマは、各民族の思想家らがあたかも鳥のように、暴風雨を避けて休《やす》らいに来る小島であった。しかるに今では、なんという避難所となったことだろう! その小島は海水に没してしまっていた。ローマはもはや存在しない。鳥は七つの丘[#「七つの丘」に傍点]から逃げてしまった。――ただアルプス連山が鳥のために
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