きを見せている雪のアルプス連山、ダ・ヴィンチ式の山々。アペニン山脈に落ちてくる夕闇《ゆうやみ》。ファランドルのように何度も繰り返し引きつづく律動《リズム》をもって、蜿蜒《えんえん》とつづいてる険しい小山を、曲がりくねって降りてゆく列車。――そして突然、坂道の麓《ふもと》に、あたかも接吻《せっぷん》のように人を迎える、海の息吹《いぶ》きと橙樹《とうじゅ》の香。海、ラテンの海とその乳光色の光、そこには翼をたたんだ幾群もの小舟が、ゆったりと浮かんで眠っている……。
海岸の一漁村で汽車は止まったまま動かなかった。大雨のためにジェノヴァとピサとの間の隧道《すいどう》が崩壊した、ということが旅客らに伝えられた。どの列車もみな数時間遅延していた。クリストフはローマ直行の切符をもっていたが、他の乗客らの物議をかもしたその不運を、かえって非常に喜んだ。彼は歩廊《プラット・ホーム》に飛び降り、停車の時間を利用して、海の景色にひかされて出かけて行った。彼はすっかり海にひきつけられたので、一、二時間後に列車が汽笛を鳴らしてふたたび進行しだしたときには、小舟に乗っていて、列車が通り行くのを見ながら「御機嫌《ごきげん》よう!」と叫んでやった。輝かしい夜に、輝かしい海の上で、若い糸杉に縁取られた岬《みさき》に沿って、舟を漂わした。そして彼はその村に腰をすえて、たえず愉快に五日間を過ごした。長い断食を済ましてむさぼり食う人のようであった。飢えたすべての官能で輝いた光をむさぼり食った……。光よ、世界の血液よ、人の眼や鼻や唇《くちびる》や皮膚のあらゆる毛穴から肉体の底まで滲《し》み込む、生の流れよ、パンよりもなおいっそう生命には必要な光よ――北方の覆面をぬいでる純潔な燃えたった真裸の汝《なんじ》を見る者は、どうして今まで汝を所有せずして生きることができたかをみずから怪しみ、もはや汝を欲望せずには生き得ないことを知るであろう。
五日間クリストフは太陽に酔いしれた。五日間彼は自分が音楽家であることを忘れた――それは初めてのことだった。彼一身の音楽は光に変わっていた。空気と海と土地、太陽の交響曲《シンフォニー》。そしてこの管絃楽団を、イタリーはなんという先天的技能をもって使役し得てることぞ! 他の国民はみな自然に従って彩《いろど》っている。イタリーは自然と協力している。太陽とともに彩っている。色彩の音楽
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