。すべてが音楽であり、すべてが歌っている。金色の亀裂《きれつ》のある真赤《まっか》な往来の壁面、上方には縮れっ毛の二本の糸杉、周囲には紺碧《こんぺき》の空。青色の建物の正面の方へ赤壁の間を上っていってる、急な白い大理石の石段。杏子《あんず》色やシトロン色や仏手柑《ぶつしゅかん》色などさまざまの色で、橄欖樹《オリーヴ》の間に輝いてるそれらの家は、木の葉の中のみごとな果実のように見える……。イタリーの幻覚は肉感的である。汁《しる》の多い芳しい果実を舌が喜ぶように、人の眼は色彩を喜ぶ。その新しい御馳走《ごちそう》の上へ、クリストフは貪婪《どんらん》な食欲で飛びついていった。これまで灰色の幻像にばかり限られていた禁欲生活の補いをつけた。運命のために息をふさがれていた彼の豊饒《ほうじょう》な性質は、これまで用いなかった享楽の力を突然意識しだした。その力は差し出された餌食《えじき》を奪い取った。芳香、色彩、人声や鐘や海の音楽、空気と光との快い愛撫《あいぶ》……。クリストフはもう何事をも考えなかった。法悦のうちに浸った。彼がそれから我に返るのは、出会う人々に自分の喜びを伝えんがためばかりだった。相手は雑多だった。皺《しわ》寄った鋭い眼をし、ヴェネチアの元老のような赤い縁無し帽をかぶってる、自分の船頭である老漁夫――激しい憎悪でくろずんでる獰猛《どうもう》なオセロ風の眼をぎょろつかせながらマカロニーを食べる、無感無情な人物である、唯一の会長者たるミラノ人――料理の盆を運ぶのに、ベルニニの描いた天使のように、首を傾《かし》げ腕や胴をねじらす、料理店の給仕――通行人に青枝付きの香橙《オレンジ》を差し出して路上で物乞《ものご》いをし、追従《ついしょう》的な流し目を使う、聖ヨハネみたいな少年。また、駅馬車の奥に頭を下にして寝そべりながら、鼻唄《はなうた》のいろんな端くれを不意に歌い出す馬車屋をも、彼はよく呼びかけた。カヴァレリア[#「カヴァレリア」に傍点]・ルスチカナ[#「ルスチカナ」に傍点]を小声で歌ってる自分自身にふと気づいて驚いた。旅の目的はまったく忘れてしまっていた。早く目的地へ着いてグラチアに会いたいことも、すっかり忘れていた……。
 そしてついにある日、なつかしい彼女の面影が浮かんできた。それを描き出したのは、往来で出会った一つの眼差《まなざし》だったか、荘重な歌うような一つの
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