の内生活には雨戸が閉ざされていた。この秋の終わりにはそれがなおいっそう必要だった。三週間引きつづいて絶え間なしに雨が降った。つぎには見通すことのできない一面の灰色の雲がスイスの濡《ぬ》れて震えてる谷間の上にのしかかった。太陽の麗わしい光は眼から消えてしまっていた。太陽のような中心精力を自分のうちに見出すためには、まず完全な暗黒を作って、眼瞼《まぶた》を閉じて、坑道の奥へ、夢想の地下坑の中へ、降りて行かなければならなかった。そこの石炭の中に、滅びた日々の太陽が眠っていた。けれども身をかがめて採掘しながら生を送って、そこからようやく出て来ると、身体は干乾《ひから》び、背骨と膝《ひざ》とは硬《こわ》ばり、手足はゆがみ、夜の鳥のような眼になって視力が曇ってるのだった。幾度となくクリストフは、凍えた心を温《あたた》むる火を、坑道の奥からようやくにして取り出してきた。しかし北方人の夢想には、暖炉の熱の匂《にお》いがある。その中で生きてるときには人はそれに気づかない。人はその重々しい温《ぬく》みを好み、その薄明かりを好み、重苦しい頭の中に積もってる夢を好む。人は自分のもってるものを愛するものだ。自分のもってるものに満足しなければならない!……
 クリストフはアルプスの連山から出て、客車の片隅《かたすみ》にうとうとしながら、清らかな空と山腹に流れている光とを見たとき、あたかも夢をみてるような気がした。どんよりした空と薄暗い日の光とは山脈の彼方《かなた》に残されていた。その変化があまりに急激だったので、初め彼は喜びよりもさらに多くの驚きを感じた。しばらくたってからようやく、麻痺《まひ》していた彼の魂はしだいに弛《ゆる》んでき、彼を閉じ込めていた外皮は裂けてき、心は過去の影から脱してきた。その日が進むに従って、柔らかな光が彼を抱き包んだ。そして彼は今まで存在していたすべてのものの記憶を失って、うちながめることの喜びをむさぼるように味わった。
 ミラノの平野。産毛《うぶげ》の生《は》えたような水田を網目形に区切ってる青っぽい運河、その運河の中に映ってる日の光。褐色《かっしょく》の細葉を房々《ふさふさ》とつけ、捩《ねじ》れた面白い体躯《たいく》の痩《や》せたしなやかさを示してる、秋の樹木。橙《だいだい》色や金縁や淡碧《うすみどり》に縁取られた重畳してる線で、地平を取り囲みながら、柔らかな輝
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