いして、復活の言葉をもたらしてきた。愛情!……彼はそれを捨てた気でいた。愛情なしで暮らすことを学ばなければならなかった。そして今日になって、いかばかり愛情が自分の生活に欠けていたかを感じ、自分のうちに積もってる愛情の量がいかに多いかを感じた。
 楽しい聖《きよ》い一晩だった……。二人は何事も隠し合わないつもりではあったが、彼はただ無関係な事柄だけしか彼女に話せなかった。しかし彼女から眼つきで促されて、いかばかり多くのよい事どもを彼はピアノで語ったことだろう! 彼女は彼の心の謙譲さを見て、かねて彼を高慢な激烈な人だと知ってただけに驚かされた。彼が帰ってゆくとき、二人は無言のうちに手を執り合って、たがいにふたたび見出したことを告げ、もうふたたびたがいに見失うことのないのを告げた。――そよとの風もなく、雨が降っていた。彼の心は歌っていた……。
 彼女はこの土地にもう数日しか滞在できなかった。そして出発を少しも延ばさなかった。彼は延ばしてくれと頼みかねたし、また悲しみを訴えかねた。最後の日に、二人は子供たちだけといっしょに散歩をした。一時彼は愛と幸福とにいっぱいになって、それを彼女へ言い出しかけた。しかし彼女は微笑《ほほえ》みながら、ごくやさしい身振りでそれを押し止めた。
「いえ! あなたがどんなことをおっしゃろうと、それはみな私の感じてることですから。」
 二人は初めふいに出会ったあの道の曲がり角にすわった。彼女はやはり微笑みながら下の谷間をながめた。けれど彼女が眼に見てるのはその谷間ではなかった。彼は苦悩の跡が残ってる柔和な彼女の顔を見守った。濃い黒髪の中には方々に白髪が見えていた。魂の悩みが印せられてるその肉体にたいして、彼は憐憫《れんびん》と情熱との交じった崇敬の念を覚えた。時の傷跡のうちに至るところ魂が露《あら》わに見えていた。――そして彼は低い震える声で、貴重な恩顧をでも求めるように、その白髪の一筋を求めて、もらい受けた。

 彼女は出発した。なぜ自分をいっしょに伴おうとしないかを、彼は了解できなかった。彼は彼女の友情を少しも疑いはしなかった。しかし彼女の控え目なのに当惑した。彼はその土地に二日ととどまってることはできなかった。彼女と別な方向へ出発した。旅行や仕事で精神を満たそうとつとめた。グラチアへ手紙を書いた。グラチアは二、三週間後に短い手紙で彼に答えた。そ
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